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国民国家の歴史

論理

 ちょっと考えたら、未唯空間へ来る。そんな感じです。それが論理です。皆、ここへくればいい。個別の事だけではできない。

 あのリストから、まだまだ、色々なものを吸い取らないといけない。未唯空間以外はつまらない。退屈です。

車を使うこと

 車は作ることが目的ではなく、使うことが目的。

安全保障

 国としての安全保障を共有で考えていく。国際的な環境社会にはエネルギー安全保障と地域温暖化を入れる。

パートナーからの相談

 やはり、木曜日から一切の反応がない。まあ、いいんじゃない。くっつきすぎるのは危ないのは確かです。期待してしまうから。けっして、突っつかない。これがルールです。

戦争と平和の歴史

 歴史の中で、戦争の歴史、平和の歴史、武器の歴史をどこに入れようか。国民国家が作られたところに入れましょうか。それが未来どうなるか。

国民国家の歴史

 国民国家が作られたのは、人口が増えて、都市に集まってきたからです。その形態がなければ、君主制とか共和制に留まっていたでしょう。ただ、そのエネルギーが資本主義というカタチで歪んでしまった。皆に所有することに夢を抱かせた。

 民主制からその先の全体主義とか共産主義へ行ったけど、戻ってきた。共に、国という単位で変えようとしたけど、維持するのが難しかった。今は、民主制のところでブラブラしています。固定していない。次のステップを探しています。

 傾向としてあるのは、国の不安定さでもって、民族の問題と宗派の問題が出ている。更に大きいのは、環境社会になった時に、どういう国家の体制がいいのか、国家で維持できるのか。より多くの人が幸せになることを国家という単位で保証できるのか。

人口の増加と環境社会

 グローバル化が環境にどういう影響を与えるのか。環境社会そのものは人が増えすぎたことで、有限の認識から起こってきた。

 人は多分、これ以上増えないでしょう。だけど、ちょっと油断するとどんどん増えます。移民というカタチで外へ出ていく。ギリシャ人の第二の都市は、カナダとオーストラリアにある。その先にもキャパシティがあるから、中途半端になる。

 この辺の考えは国という単位でなく、コミュニティで考えると、全体が掴めます。グダラグダラをこの中に入れておきます。まとまった形では入らないでしょう。ちょっとでも集まりを感じたら、それを入れます。ほとんどゴミです。

リアルタイムでの反映

 リアルタイムで反映させます。現在はICレコーダーから雑記帳に表記して、ブログ化して、それを未唯空間に落とすカタチを取っています。落とすと同時に、未唯空間に反映させます。あとからフォローするカタチです。

 例えば、パートナーに対してのアドラー心理学だったら、どこに入れたらいいのか。これは多分、エンパワーメントでしょうね。ファシリテーションからエンパワメントに回していく。

パートナーのシステム設計

 そこから、パートナーのシステム設計を完成させていきます。今は、リアライゼーションをやっているつもりでいけど。パートナーの良さが活きていない。目的ではない。

 だから、「不安がいっぱい」になります。作るためには、サファイアのループが回っていないといけない。リアライゼーション⇒ファシリテーション⇒エンパワーメント⇒インタープリテーション⇒リアライゼーション⇒…。それがシステム設計そのものです。

 パートナーに関しては、ファシリテーションから入った。それから、インタープリテーションを始めた。仕事としては、急にリアライゼーションを一方的に振られた。アドラー心理学ではないけど、エンパワーメント(勇気づけ)に向かっていきます。そうなってくると、情報系システムの目的は、店舗のエンパワーメントです。曽於エンパワーメントをお客様とのループにどう影響させていくのか。

図書館での活動

 図書館を具体的にどうしていくのか。

 人との連携は考えられない。私には他者はいないのだから。それをベースに、考え方だけをやります。行動はしない。本がもっている内容。もっと、画期的でないといけない。アマゾンと言えども、少しは見習うけど、その方向を出す時です。
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哲学者事典

『哲学』より ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

1889年~1951年 オーストリア

ウィトゲンシュタインの哲学的キャリアは2つの異なる時期に分かれる。初期の思想は『論理哲学論考』に、後期の思想は『哲学探究』に集約されている。しかし、哲学的な問題は言語における混乱から生じるという確信は、どちらの期間にも一貫していた。

生涯と業績

 8人の子どもを持つオーストリアの裕福な実業家の末っ子として生まれたウィトゲンシュタインは、修道院に人ることを考えたが、ベルリンで機械工学を学び、1908年には航空工学の博士号を取るためにマンチェスターヘ向かった。そこでラッセルの『数学原理』に出会う。

 数学と論理学の基礎に関心を持っていた彼が、イェーナ人学で教えているフレーゲに自分の論文を見せると、フレーゲは彼にケンブリッジのラッセルの下で学ぶように勧めた。 1914年第一次大戦が始まると、ウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍に志願し、イタリアのモンテ・カッシーノ近郊の捕虜収容所で終戦を迎えた。彼は戦争巾も哲学書の執筆を続け、1922年『論理哲学論考』を英語で公刊した。戦争後、彼はそれまでの贅沢な習慣を変え、すでに裕福で資産がさらに増えてもそのせいで堕落する心配のない兄姉に全財産を贈与した。

 『論考』が哲学に関するあらゆる問題を解決したと信じた彼は小学校の教師になったが、痛癩と厳しい指導から父兄との溝が深まり、辞職に追いこまれた。『論考』のアプローチは単純すぎたことに気づいた彼は、1929年ケンブリッジで哲学的な研究に戻り、1939年に教授となった。

中心となる考え

 『論考』の中でウィトゲンシュタインは、論理的原子論に属する一見解--すべての意味ある言説は原子的事実を映す単純な主張に分析できるという見解-を提出し、言語がどう機能するかを明らかにしようと試みる。ひとつの命題は要素--実在の要素を表す名--を含むことで世界について主張を行う。これらの名を異なる方法で組み合わせることで、我々は対応する事態を写すことができる。ひとつの命題は、その命題が写すように物事が結合しているときにのみ真となる、これがウィトゲンシュタインの写像理論だ。

 彼の考えでは、基本的な名は、論理的に分析も分解もできない絃験的実在の構成要素である「単純なもの」を表している.意味のある言説はすべて、分析により、これらの「単純なもの」が組み合わさった形に、すなわち科学的言説に還元されなければならない.このようにして、ウィトゲンシュタインは形而上学的考察の大半をナンセンスな行為だと切り捨てる

 しかし、『論考』は、宗族的、倫理的言説、経験の構造と自己の本質に関する形而上学的思索などの「沈黙したままやり過ごさなければ」ならないものに対する謎めいた姿勢で有名だ。実際、後期になると、ウィトゲンシュタインは自分の写像理論が言評のあらゆる使用を説明できないことに気づく。そして抽象的で無機質な初期の著作は、現実の言説の多様さとニュアンスに気づいた思想家のそれに取って代わる。とはいえ、哲学の問題は言語の不明晰さから生まれるという確信は残った。

 『哲学探究』は、言語はひとつの機能ではなく、幅広く、多様な方法で使われていると主張し、基礎的な言語単位がひとつの物に対応する名であると考えるのでなく、途方もなく多様な方法で表現が使われることを強調する。意味があるのは科学的言語だけではない。多くの異なる形の言説が存在し、各々が岡有の規則と「文法」を持っている。我々が表現間の表面的な類似性に目を奪われ、その使用の相違を見過ごしてしまうと、哲学的混乱が生じる。だが、そうした混乱は再び実際の言語使用に注目することで解消される。
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哲学の諸領域

『哲学』より 哲学の諸領域 心の哲学

心と身体の二元論

 我々の意識を持った心と身体はどう関係しているか? 「実体二元論者」によれば、心と身体は別個の実体だ。しかし、実体とは何か? 実体は属性と違い、論理的には他の実体から独立して存在することができるものだ。本書は実体である。これは他の物体とは別個に存在できる。だが、重量は違う。本書の重量は本書がなければ存在しない。重みはそれが属する実体のたんなる属性に過ぎない。

 実体二元論者は、心はそれ自体実体だと主張する。おそらくは最も著名な実体二元論者であるルネ・デカルトは、心は身体とは独立して存在できる「考える」実体だと信じた。様々な宗教も、心は死後、肉体を離れて非物理的な領域に住むとして、一種の実体二元性を唱える。

 それとは対照的に、唯物論者は実体は物質的実体ただ一種類しかないとする。心は物質的対象であると主張することが唯物論であるのは明らかだろう。この対象の明らかな候補は脳である。現にオックスフォード大学の科学者スーザン・グリーンフィールドは、「あなたはあなたの脳です」と主張した。我々はまた心的な属性やプロセスを、物的な属性やプロセスと同一視するかもしれない。科学者は、宵の明星は明けの明星と、水はH20と、熱は分子運動と同一であることを発見した。同様に、痛みはある脳の状態と等しいことが科学ではっきりするかもしれないと言われてきた。

 論理的行動主義者と呼ばれる唯物論者は、心は物質--身体--が持つ複雑な物理的傾向の集合にすぎないと信じる。心を持つとは、様々な複合的仕方で振る舞う傾向があるということである。たとえば痛みを感じるとは、身をよじったり叫んだりする傾向があるということだ。そうした物理的傾向は物体ですら持つことができるので、物的対象が心を持つことにはなんの問題もない。実体二元論者のように、私の心はこの物質的身体やその行動上の傾向性を超えて存在する「何か」だと考えるのは、行動主義者にとっては、まったく神話的で余分な「機械の中の幽霊」を持ち込むことである。

心を否定する

 より抜本的な唯物論である消去的唯物論は、心の存在を否定する。心は明らかに存在するように思われるかもしれないが、彼らによれば、科学がさらに進歩すれば、心は実在しないとわかるかもしれない。魔女や悪魔が存在することも、数百年前までは多くの人々に明白な事実だとみなされていたのだから。たとえば疫病や嵐はその邪悪な影響のせいだとされていた。だが、言うまでもなく疫病と嵐の正しい説明には魔女や悪魔への言及は含まれない。人問の振る舞いの正しい説明にも、心や心の中で起こる思考や感情などは含まれないと判明するだろう、と消去主義者は言う。それは心の中で起こっていると考えられているものとは何の関わりもない、神経その他の物理的な出来事による説明だろう。心とそこで起こっていることは絵空事だと判明するかもしれない、と。

二重の同一性

 意識的な心と物質世界の関係についてのより巧妙な立場のひとつに、性質二元論がある。彼らは、実体は物理的実体一種類しかないと考えた点で、唯物論者は正しいとする。だが彼らは、物質的実体は物理的属性と心的属性を同時に持ちうるとみなし、心的属性を物理的属性に還元できない物理的属性とは別のものと考えた。たとえばある者は、人間の脳は、重さが1.8kgだとか、ニューロンを持つといった純粋に物理的な属性と、苦痛を感じるとかチーズを思い浮かべるといった心的な属性の、まったく異なる2種類の属性を持つと考えた。そして後者の属性は、脳が持つすべての物理的属性以外に存在するものだと言う。性質二元性論者は、実体には物質的実体しかないとする点で唯物論者に同意しながらも(だから彼らは唯物論者だ)、人間の意識に関する事実は我々に関するすべての物理的事実を超えているとする点では、実体二元論者の主張に同意するのだ。
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豊田市図書館の28冊

235.07『1968パリに吹いた「東風」』フランス知識人と文化大革命

963『チューリングの妄想』

210.04『歴史のくずかご』とっておき百科

460.4『遺伝子はダメなあなたを愛してる』

493.76『パーソナリティ障害がわかる本』「障害」を「個性」に変えるために

953.7『夜間飛行』

913.68『本屋のアンソロジー』大崎梢リクエスト!

913.6『南シナ海海戦』

231.3『ペリクレスの世紀』

377.21『弱肉強食の大学論』生き残る大学、消える大学

193.04『はじめて読む聖書』

146.02『フロイトとアドラーの心理学』比べてわかる!

159.8『人生に迷わない36の極意』プロフェッショナル仕事の流儀

689.5『ディズニーの最強マニュアル』どんな人も「自ら動く人材」に変えてしまう

019.12『読む技術』成熟した読書人を目指して

016.21『塩尻の新図書館を創った人たち』われら図書館応援団

335.13『ジェフ・ベゾス』アマゾンをつくった仕事術

126.6『ヒマラヤ聖者のいまを生きる知恵』

914.6『素直に生きる100の講義』

517.4『首都水没』

361.23『マックス・ウェーバーを読む』

338.97『人民元読本』今こそ知りたい!中国通貨国際化のゆくえ

336.3『ビッグチャンス』追い風の今、日本企業がやるべきこと

414.8『非ユークリッド幾何の世界』幾何学の原点をさぐる

302.27『報道されない中東の真実』動乱のシリア・アラブ世界の地殻変動

910.26『アヤツジ・マキト2007-2013』

221.07『朝鮮戦争』ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点

493.25『高血圧を自分で下げる5つの習慣』高血圧は伸也と早朝に牙をむく
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