未唯への手紙
未唯への手紙
周辺部が中心部になる
『国境にて』より
一九九二年にイツハク・ラビンが首相に選ばれた翌日、労働党のヨッシ・ベイリン議員(後にオスロー合意の主要交渉者となった人物)はテレビで次のようなコメントを出した。
この選挙結果は、恐らく二度とあり得ない幸運な状況から生まれた果実だと言えます。だから、この機を逃さずに、早急に和平プロセスに入るべきだと思います。ひょっとすれば、左派にとって、自らの政策が実行できる最後の機会かもしれないからです。
先を見通したこの分析は、シオニスト左派全般の勝利に酔った発言と好対照をなしていた。左派の人たちは、労働党の政権復帰を、一五年間続いてきた変則的幕間の終了で、やっと本来の姿に戻ったと考えていた。シオニスト左派は、自分たちが抱くイメージに合わせ、自分たちの世界観に沿って国作りをしてきたものだから、自分だちとイスラエル国家を同一視する傾向があった。政権から離れていた一五年間、彼らはイスラエル社会を作り変えようとしていた社会的・政治的・文化的変化に目を向けようとしなかった。選挙で敗北するたびに、シヤス党が票を伸ばすたびに、それに驚き、こんなことは二度と起こることがない珍現象だと語るだけであった。しかし、時代の流れは着実であった。ベングリオンやキブツのイスラエル、ローマの詩人ヴェルギリウスを引用できる大佐がいたイスラエルは、もう消滅しつつあったのだ。
ペイリンの警告はすでに遅きに失するところがあった。ラビン左派政権成立はイスラエルの社会政治的現実を反映したものとは言えず、同政権が打ち出したパレスチナとの和解政策は、勢いを得てどんどん強くなっていく層の世論と衝突した。この層は、一九八〇年代初期から新しい社会政治勢力として、労働党、そこに集まるエリート層、そのイデオロギーや社会建設の青写真を否定する勢力として出現した。この勢力自体は、内部に深い社会的・文化的矛盾を抱えるものであったが、労働党拒否という点では一致し、強力なブロックを形成した。それは、イスラエル建国以来、「新しいユダヤ人像」の基準に適合せず、建設中の国家社会の隅っこに追いやられていた人々からなるブロックであった。その一つは、アラブ系ユダヤ人やオリエンタル系ユダヤ人(クルド系、ペルシア系、インド系)で、未開で後進的なために、近代的シオニズム使命を帯びた国家の旗手にはなれないとされた。もう一つはユダヤ教徒で、これは惨めなディアスポラの残骸と見られた。建国の父たちの考えでは、これらエスニック文化的特異性は、西洋的世俗的モデルヘの統合--同化--を目指した積極的な社会化過程のるつぼの中で、溶けてなくなるはずであった。たとえ親が地理的・社会的に周辺部に位置していても、その子どもはまっとうな中心部イスラエル人になるはずであった。
その後一世代が通過したが、周辺部は依然として周辺部のままであった。
旧ソ連圏の共和国から大量の移民がイスラエルヘやってきたとき、それが先行移民を社会階級の上方へ押し上げるものと期待された。しかし、新移民の波は先行移民の頭の上を通り越した。先行移民--モロッコ、クルド、イラク、イエメンからの移民--の子どもたちは、相変わらず社会的に底辺、地理的に辺境の位置のままだった。学校、軍隊、その他の「統合」機関があったにもかかわらず、「二番手イスラエル」は消滅しなかった。しかし、状況は大きく変わった。一九五〇年代から一九八〇年代までの周辺部が国家集合体から排除されていたとすれば、一九八〇年代以降の周辺部は自らの意志で中心部から距離を置き、公的思想や支配的文化を意識的に拒否したと言える。
私がこういう現実の変化に気づいたのは、私が出所後、刑務所の外でも刑務所内で始めた活動を続けようとしたときだった。識字教育(イスラエル生まれのユダヤ人やアラブ人に非識字者が多いことを刑務所の中で知った)のことで、それに加えて、アルコール中毒者や麻薬中毒者の更生センターのボランティアにも志願、そこで現代社会問題に関する討論会を組織した。その一環として、ホロコースト記念日にホロコーストに関する学習会を開くことをセンター側から依頼された。ホロコーストは絶えず私の心にひっかかっている問題で、これまでに何度も、特に若い人々を対象に学習会を行なった経験があった。更生センターを頻繁に出入りした人々は主にセファルディーで、ほとんどイスラエル生まれだった。私がホロコーストについて話し始め、ものの一五分も経たないうちに、突然参加者の一人が私の話をさえぎって、次のように言った。「ミシェル、あんたは教育があり、バカでないことは、わしらがよく知っている。それに、あんたはわしたちを大事にしてくれることも知っている。それなのに、なぜあんたは六百万人のユダヤ人虐殺というホラ話をするんだね? まさか、あんたまでがそれを本気で信じているんじゃないだろう?」と。他の参加者も彼の発言に同意して、うなずいていた。私はすっかり動転し、「じゃ、君は本当はどうだったと思っているんだ」と問いかけた。彼や参加者たちの答えは、「アシュケナージが、白分たちが犠牲者で、わしらは犠牲者じゃないことを、わしらに信じ込ませようとしているんだ。そんなものに編されないぞ」であった。こういう出来事はそれ一回だけではなく、その後も、私が彼らをホロコーストの証拠記録や恐ろしい写真を展示しているヤド・ヴァシェム記念館へ連れて行った後でも、何度もあった。
いったん支配階級が自分たちの世界観やイデオロギーを押しつけることができなくなると、被支配的位置にある周辺部は自分たちの力や特質を意識するようになり、エリート権力に立ち向かうようになる。ここで革命が起きたり、そこまでいかなくても、大きな社会的亀裂が表面化するのである。
一九九二年にイツハク・ラビンが首相に選ばれた翌日、労働党のヨッシ・ベイリン議員(後にオスロー合意の主要交渉者となった人物)はテレビで次のようなコメントを出した。
この選挙結果は、恐らく二度とあり得ない幸運な状況から生まれた果実だと言えます。だから、この機を逃さずに、早急に和平プロセスに入るべきだと思います。ひょっとすれば、左派にとって、自らの政策が実行できる最後の機会かもしれないからです。
先を見通したこの分析は、シオニスト左派全般の勝利に酔った発言と好対照をなしていた。左派の人たちは、労働党の政権復帰を、一五年間続いてきた変則的幕間の終了で、やっと本来の姿に戻ったと考えていた。シオニスト左派は、自分たちが抱くイメージに合わせ、自分たちの世界観に沿って国作りをしてきたものだから、自分だちとイスラエル国家を同一視する傾向があった。政権から離れていた一五年間、彼らはイスラエル社会を作り変えようとしていた社会的・政治的・文化的変化に目を向けようとしなかった。選挙で敗北するたびに、シヤス党が票を伸ばすたびに、それに驚き、こんなことは二度と起こることがない珍現象だと語るだけであった。しかし、時代の流れは着実であった。ベングリオンやキブツのイスラエル、ローマの詩人ヴェルギリウスを引用できる大佐がいたイスラエルは、もう消滅しつつあったのだ。
ペイリンの警告はすでに遅きに失するところがあった。ラビン左派政権成立はイスラエルの社会政治的現実を反映したものとは言えず、同政権が打ち出したパレスチナとの和解政策は、勢いを得てどんどん強くなっていく層の世論と衝突した。この層は、一九八〇年代初期から新しい社会政治勢力として、労働党、そこに集まるエリート層、そのイデオロギーや社会建設の青写真を否定する勢力として出現した。この勢力自体は、内部に深い社会的・文化的矛盾を抱えるものであったが、労働党拒否という点では一致し、強力なブロックを形成した。それは、イスラエル建国以来、「新しいユダヤ人像」の基準に適合せず、建設中の国家社会の隅っこに追いやられていた人々からなるブロックであった。その一つは、アラブ系ユダヤ人やオリエンタル系ユダヤ人(クルド系、ペルシア系、インド系)で、未開で後進的なために、近代的シオニズム使命を帯びた国家の旗手にはなれないとされた。もう一つはユダヤ教徒で、これは惨めなディアスポラの残骸と見られた。建国の父たちの考えでは、これらエスニック文化的特異性は、西洋的世俗的モデルヘの統合--同化--を目指した積極的な社会化過程のるつぼの中で、溶けてなくなるはずであった。たとえ親が地理的・社会的に周辺部に位置していても、その子どもはまっとうな中心部イスラエル人になるはずであった。
その後一世代が通過したが、周辺部は依然として周辺部のままであった。
旧ソ連圏の共和国から大量の移民がイスラエルヘやってきたとき、それが先行移民を社会階級の上方へ押し上げるものと期待された。しかし、新移民の波は先行移民の頭の上を通り越した。先行移民--モロッコ、クルド、イラク、イエメンからの移民--の子どもたちは、相変わらず社会的に底辺、地理的に辺境の位置のままだった。学校、軍隊、その他の「統合」機関があったにもかかわらず、「二番手イスラエル」は消滅しなかった。しかし、状況は大きく変わった。一九五〇年代から一九八〇年代までの周辺部が国家集合体から排除されていたとすれば、一九八〇年代以降の周辺部は自らの意志で中心部から距離を置き、公的思想や支配的文化を意識的に拒否したと言える。
私がこういう現実の変化に気づいたのは、私が出所後、刑務所の外でも刑務所内で始めた活動を続けようとしたときだった。識字教育(イスラエル生まれのユダヤ人やアラブ人に非識字者が多いことを刑務所の中で知った)のことで、それに加えて、アルコール中毒者や麻薬中毒者の更生センターのボランティアにも志願、そこで現代社会問題に関する討論会を組織した。その一環として、ホロコースト記念日にホロコーストに関する学習会を開くことをセンター側から依頼された。ホロコーストは絶えず私の心にひっかかっている問題で、これまでに何度も、特に若い人々を対象に学習会を行なった経験があった。更生センターを頻繁に出入りした人々は主にセファルディーで、ほとんどイスラエル生まれだった。私がホロコーストについて話し始め、ものの一五分も経たないうちに、突然参加者の一人が私の話をさえぎって、次のように言った。「ミシェル、あんたは教育があり、バカでないことは、わしらがよく知っている。それに、あんたはわしたちを大事にしてくれることも知っている。それなのに、なぜあんたは六百万人のユダヤ人虐殺というホラ話をするんだね? まさか、あんたまでがそれを本気で信じているんじゃないだろう?」と。他の参加者も彼の発言に同意して、うなずいていた。私はすっかり動転し、「じゃ、君は本当はどうだったと思っているんだ」と問いかけた。彼や参加者たちの答えは、「アシュケナージが、白分たちが犠牲者で、わしらは犠牲者じゃないことを、わしらに信じ込ませようとしているんだ。そんなものに編されないぞ」であった。こういう出来事はそれ一回だけではなく、その後も、私が彼らをホロコーストの証拠記録や恐ろしい写真を展示しているヤド・ヴァシェム記念館へ連れて行った後でも、何度もあった。
いったん支配階級が自分たちの世界観やイデオロギーを押しつけることができなくなると、被支配的位置にある周辺部は自分たちの力や特質を意識するようになり、エリート権力に立ち向かうようになる。ここで革命が起きたり、そこまでいかなくても、大きな社会的亀裂が表面化するのである。
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