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ウィットゲンシュタインの真似

ウィットゲンシュタインの真似

 ウィットゲンシュタインの真似をして、映画館で、一番前の席で頭をクリアしましょう。これを月曜日のセレモニーにします。それが面倒な時は、ロビーで考えます。何しろ、月曜日は映画館です。

 ウィットゲンシュタインって、あんなにやさしい人間だったかな。『ヴィトゲンシュタインの言葉』は超訳しすぎ。それとフィルターがきつい。

パートナーの相談

 20:22から55分の会話。結局、会話になっていなかった。意図するのはやめましょう。

 Q)この室の役割は何でしょうか。

 A)単純です。メーカーとして、販売店の役に立つことです。以前は直間比率が基準だったが、時代は大きく変わった。ニーズの多様化であり、グローバル化です。その時点で作る部署が他に移ったということは、販売店と共にどうしていくのかを考えていくのが役割です。その時の販売店はシステム担当でなく、先行きを悩んでいる経営者層です。

 Q)次回打合せ資料ができなくて困ってます!相談にのってくださいね!

 A)頑張ります。詳細、教えてください。

 Q)処理フローをイメージしていますが、どういうレイアウトでどこまで書けばよいのかわからない。業務フローでもないし、皆さんはどうしてるんだろう。

 A)フローチャートの分岐を直接書くのは難しいかも知れない。まずは、データの流れをイメージすることです。皆がやっているのは、画面遷移ですね。これだと決め付けになってしまう。
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世界について

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

世界とは、人や物がさまざまに関わっている事実のこ

世界の創造より世界の持続のほうが大きな奇蹟だ

 信仰を持っている人は、「神が世界を創造したのだ、これこそ最大の奇蹟ではないか」と言う。その人が感嘆しながら言うようによしんば神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。

 創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇蹟ではないだろうか。

 いや、そもそも、世界の創造と持続はもともと一つのことだったのではないか。

 つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

 (『哲学宗教日記』)

自然は自然法則を知らない

因果の法則は人間がひねり出したものにすぎない

 世間の人々がしばしば話題にし、その存在が当然であるかのように信じられている「因果応報」の法則というものは存在しない。

 ただいつも、自然の法則が貫かれるだけだ。

 あるいはまた、一般的に因果というならば、それは物理法則や力学の法則のことだ。そこで貫かれているのは非情な論理だけだ。

 あるいはこうも言い換えられる。事実の起こり方が、人が考えてひねり出した物理的因果の法則にあてはまっているだけだ。

 (『論理哲学論考』)

自然法則はしょせん人の言葉にすぎない

科学信仰は世界を退屈にする

迷信は不安や恐れから生まれ、宗教は深い信頼から生まれる

娯楽から学ぶこともできる

ほんの小さなウソでも、決して真実ではない

ありふれたものに神秘を見出せ

人生と世界の本当の謎は日常の中にひそんでいる

偶然などというものは存在しない

 人には偶然に起こったように見えることすら、あらかじめ充分に起こりえる可能性を含んでいたのだ。

 つまり、わたしたちにとってそれが偶然に見えているだけにすぎない。

 あるいは、自分の思慮不足から予測できなかっただけのことなのに、ありえないことが起きたかのように驚きつつ、それをあまりにも偶然なことだと名づけているだけである。

 だから、いつでもあらゆることが起こりえる。何が起きても不思議ではない。そして、あらゆることを自分が起こしえる。

 (『論理哲学論考』)

可能性は現実ではない

時間は流れるものではない

人それぞれの背景によって体験は全然違うものになる

体罰は腹立ちを物にぶつけるのと同じだ

力づくでは植物の芽は出ない

哲学は詩のように書くことしかできない

美しい薔薇は汚物の中から芽吹く

センスだけでは芸術は生み出せない

古典作品は太陽のように沈んでは昇る

神の命令は理由のない掟だ

神はそばにいなくても確かに存在する

聖書の真偽は科学的真偽とは関係ない

自分をありのままに見る勇気が必要だ

自分を新しくすれば取り巻く世界も変わる

世界を変えたいなら自分を変えよ

 この世界があまりにもひどいから変えたいというのか。

 この世界を、もっとやさしさに溢れた世界に、もっと新鮮でみずみずしく、そしてもっと美しくしたいというのか。

 そのために戦争や革命や流血が必要なのだろうか。

 いや、そうではない。世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌す そして、きみ自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。

 (『論理哲学論考』)

他人に影響された自分は元に戻す必要がある

自分を商品にするな

空想は決して実現しない

自分を引き受けるしかない

自分が思う自分の性格は他人が見ている自分の性格とは違う

相手を理解したいなら、相手の中に自分自身を見つけよ

 わたしたちはどのようにして他人を理解し、ときには同情を寄せたりあるいは喧嘩することができるのだろうか。相手と言葉が通じるから?

 そうではない。言葉が通じるだけでは相手を理解できない。

 わたしたちが理解しあえるのは、相手の中に自分自身を見つけることができるからだ。相手の文化や価値観がまったく異なる場合、あるいは相手の反応が自分とはまったく似通っていない場合、言葉がわかっても相手を理解できなくなる。

 相手の中に自分自身とそっくりなものをたくさん見つけることができるから、相手の気持ちや考えを理解できているのだ。

 (『哲学探究』)
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人間について

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

自分が正しいと思い込んでいる人は怠け者だ

 自分の意見が絶対的に正しいと思いこんでいる人は、ある傾向の考え方だけをえんえんと頭の中にめぐらせていて、そのためにいつも同じか似たような結論を出してばかりいる。

 こういう状態は、偏食する人と同じだ。習慣をくり返すばかりで、他の料理の味、別の見方、まったく別の考え方の道があることを知らないこういう人は頑固で意志が強いように見えはするが、実は怠け者だったり、臆病かつ小心であることも少なくない。

 (『哲学探究』)

体の感覚のほうが信念より事実に近い

 人が信じていることをつき崩すことはとても難しい。信念を持っている人は、その信念こそ正しいと信じきっていて、聞く耳を持だない。

 そういう人でも、自分の体の感覚についてはしばしば信用しないことがあるし、感覚などはそれほど信用できるものではないとすら思ってい

 これはとても不思議なことではないか。体の感覚のほうが、自分の信念よりもずっと事実に近いはずなのに。

 (『哲学探究』)

行ないが人を表す

弱さとは苦しみを受けとろうとしないこと

苦しみよりも安楽を求めるのが弱さだ

人助けは自分が困らない程度にしかしないものだ

人間は誰しも自分に甘く、都合のいい考え方をする

ゲームには参加する人の精神が現れる

人は自分が何者かを知らない

まっとうに生きるのは他の人のため

人は好きなものにしょっちゅう触れていたがる

「ものわかりのいい人」が本当にわかっているかどうかはわからない

多くの人の視線が注がれたものが価値を生む

人は一本の雑草さえ自分の力でつくることはできない

顔は「魂」だ

絶望している人は自分の判断が正しいと信じ込んでいるだけだ

休日は自分の仕事をぼんやりと遠くから眺めてみよう

行動に理由はない

解釈の違いは人生経験から生まれる

似たような生活をしている人の倫理観は一致する

 だいたい似たような生活をしている人の倫理観はほぼ一致するものだ。彼らがふつうのこととして考える善悪や美醜は同じだ。それは意見や考えが同じだからというふうに見えるが、実は生き方や生活形式が同じだからなのだ。

 だから、当然のことながら一般市民の倫理観と暴力団の倫理観はちがうものになる。富裕層と貧困層の倫理観も。天才と凡庸な人の倫理観も。雇用者と被雇用者の倫理観もまた。

 この二層は生活の形式において離れているばかりか、別々の現実に生きているのだ。

 (『哲学探究』)

女性は教育係としての男性を必要とする場合がある

目ではなく感覚で見ている

才能とは泉のようなもの

才能が人にわかるようではまだ薄っぺらだ

天才は光を一点に集中させる

時代の先行者はやがて時代に追い越される

他人と自分を分ける心から憎しみが生まれる

敵方の旗を燃やしても気休めにしかならない
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考えることについて

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

他の誰も自分のようには考えてくれない

きみがいいと思ったら、それでいい

比べるのは悪い癖だ

考えるとは、映像をつくり出すこと

わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない

 わたしたちは論理的に考える。なぜならば、考えるときに使う道具である言葉とその文法はもともと論理的なものだからだ。

 だからといって、論理的にいつも正しく考えることができるとは限らない。考えた一文ずつは確かに論理的だけれども、次の文とのつながりがまちがっている場合があるからだ。

 それにまた、考えたことがいつも現実に即しているとも限らない。現実というものは人が考える範囲よりも、言葉が覆う範囲よりも、ずっと広く多彩な変化をするからだ。

 (『論理哲学論考』)

わたしたちには直線的に考える癖がある

別のルールで考えろ

つまらない考えに揺さぶられていないか?

難問は雑草のように根こそぎ引き抜け

常識の中に逃げるな

本当に理解するには生活経験が必要だ

因果論を捨てよ

求められているのは「論理的に正しい答え」ではなく、「現実に通用する答え」だ

問題は必ず解決できる

理解とは見晴らしのよさのこと

「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる

虚栄心が思考を妨げる

思考は特別なものではない

帰納法を過信するな

 くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけだすのが帰納法だ。

 たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。

 しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。

 そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。

 こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。

 (『論理哲学論考』)

「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある

比喩が考え方を束縛する

知識を疑い、自分でとことん考えよ

思考とは記号を並べ替えること

「知っている」と思えば進歩は止まる

哲学は難しくない。混乱しているだけだ
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考えることについて

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

他の誰も自分のようには考えてくれない

きみがいいと思ったら、それでいい

比べるのは悪い癖だ

考えるとは、映像をつくり出すこと

わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない

 わたしたちは論理的に考える。なぜならば、考えるときに使う道具である言葉とその文法はもともと論理的なものだからだ。

 だからといって、論理的にいつも正しく考えることができるとは限らない。考えた一文ずつは確かに論理的だけれども、次の文とのつながりがまちがっている場合があるからだ。

 それにまた、考えたことがいつも現実に即しているとも限らない。現実というものは人が考える範囲よりも、言葉が覆う範囲よりも、ずっと広く多彩な変化をするからだ。

 (『論理哲学論考』)

わたしたちには直線的に考える癖がある

別のルールで考えろ

つまらない考えに揺さぶられていないか?

難問は雑草のように根こそぎ引き抜け

常識の中に逃げるな

本当に理解するには生活経験が必要だ

因果論を捨てよ

求められているのは「論理的に正しい答え」ではなく、「現実に通用する答え」だ

問題は必ず解決できる

理解とは見晴らしのよさのこと

「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる

虚栄心が思考を妨げる

思考は特別なものではない

帰納法を過信するな

 くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけだすのが帰納法だ。

 たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。

 しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。

 そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。

 こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。

 (『論理哲学論考』)

「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある

比喩が考え方を束縛する

知識を疑い、自分でとことん考えよ

思考とは記号を並べ替えること

「知っている」と思えば進歩は止まる

哲学は難しくない。混乱しているだけだ
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