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歯医者は時間が掛かる

歯医者は時間が掛かる

 10時15分から歯医者です。上下の歯をつくるみたいです。取りあえずの簡単なものと、丁寧なものとどちらがいいですかと言われた。退職したら、名古屋に来るのも大変だから、最後の仕事として、丁寧な方を頼みました。週一回×3週の予約をしました。

 歯がない状態でホッとしているので、このままでもいいけど、いつも、マスクというわけにはいかないでしょう。まあ、年内にできればいいのだから。総入れ歯で、残っている歯を抜かれるぐらいのことは覚悟していたが、抜かれなくて済みました。まあ、いいことにしましょう。

 久しぶりの久屋大通だったので、地下鉄を乗り間違えたりした、結局、2時間も掛かってしまった。

Iさんのポカ

 今日は査定があるから、12時半すぎに来てくださいと言われて、ギリギリでスタバに到着。中をのぞいても、Iさんはいません。並んでいたら、後ろからヒョッコリと現れた。途端に、「ごめんなさい。スケジュールを間違えていました。査定は昨日で、今日は朝から居ました」

 このポカは多いですね。スタバで会うしか、連絡手段がないので、しょうがない。メールなどがないのが救いです。気を使わないで済みます。休憩中のIさんと4分ぐらい、立ち話。これが私にとっては、イベントですね。顔を見て、話せるのが一番です。
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ャック・アタリ『世界精神マルクス』序文

『世界精神マルクス』より ジャック・アタリ

二十世紀において、カール・マルクスほど読者をもった作家はいない。彼以上に希望を集めた革命家もいない。彼の著作ほどに注釈が書かれたイデオローグもいない。何人かの宗教の教祖をのぞけば、彼に比較できるほどの影響力をこの世界に与えた人物はいない。

しかしながら、彼の理論、世界概念は、われわれの今いる二十一世紀が、今まさに明けようとするそのとき、世界中で拒絶されてしまったのである。彼の名前で作られた政治的世界も、歴史のゴミ箱の中に棄てられてしまった。今日、彼のことを学ぶものはほとんどいない。マルクスの間違いは、資本主義は死滅しつつあり、社会主義が出現するであろうと考えた点であった。多くの人々の目にとって、マルクスは歴史上の最大の罪のいくつか、とりわけナチズムからスターリニズムといった二十世紀最後を特徴づける最悪の異常性についての、最大の責任者である。

しかし、マルクスの作品を詳細に見るならわかるが、マルクスはそれ以前の疎外から解放された世界を、とりわけ資本主義の中に見ていて、その断末魔について考えたわけでもないし、一国で社会主義が実現できると考えたわけでもない。自由貿易とグローバリゼーションを弁護し、そして革命は、たとえ起こったとしても、資本主義をすべて乗り越えねば、実現などしないだろうと予言していたのだ。

彼の生涯を追って見れば、さまざまな矛盾の中で育まれる異常な運命が生み出す、極端な現実状況が理解できるだろう。

第一に、彼が過ごした世紀が驚くほどわれわれの世紀に似ているからだ。今日同様、世界は人口的に見るとアジア優勢で、経済的にはアングロ‥サクソン優勢であった。今日同様、民主主義と市場が地球を侵略しつつあった。今日同様、技術がエネルギーや素材の生産、コミュニケーション、芸術、イデオロギーを革命化し、労働にともなう苦痛も、驚くほどの軽減を告げていた。今日同様、市場がかつてない成長の波に入る直前にあり、その矛盾が絶頂期にあったかどうかを知るものなどどこにもいなかった。今日同様、もっとも力のあるものと、もっとも貧しいものとの不平等もひどい状態であった。今日同様、しばしば暴力的で、さらに絶望的な圧力グループが、市場のグローバリゼーション、民主主義の勃興、宗教の世俗化と対立していた。今日同様、人々は、貧困、疎外、苦痛から人間を解放することより、別の友愛的世界の中に希望を託していた。今日同様、人々を必然的に友愛的世界に導く道を見つけたという名誉をめぐって、多くの作家や政治家が言い争っていた。今日同様、勇気ある人々、とりわけマルクスのようなジャーナリストが、演説の自由、執筆の自由、思考の自由のために命を落としていた。最後に、今日同様、資本主義がわがもの顔に支配し、いたるところで労賃に重石をかけ、ヨーロッパの国民国家にあわせて、世界組織を作ろうとしていた。マルクスは最初の「グローバル」な思想家であり、「世界精神」をもった人物である。とりわけ資本主義の中にそれ以前の疎外からの解放の世界を、彼が見ていたことがわかる。

第二の理由は、マルクスの活動の中には、われわれ現代にとって不可欠ともなる活動の源泉があったことである。社会民主主義が生まれるのは、彼が創設した制度のひとつ、すなわちインターナショナルにおいてである。彼の思想を歪曲することで、二十世紀最悪の独裁者たちの何人かが生まれる。まだその後遺症に悩む大陸が多くある。われわれの歴史と国家の概念を作り上げたのは社会科学だが、マルクスは社会科学の父の一人であった。世界がつねに了解され、それゆえに変化をこうむるのは、ジャーナリズムのおかげであるが、マルクスはもっとも偉大な職業的ジャーナリストであった。

最後の理由は、マルクスが、西欧的近代人を構成するすべてのものに出会える好都合な位置にいたことである。マルクスは、ユダヤ教から、貧困を許さず、生命が価値を持つのは人間の運命を改善する場合だけであるという思想を受け継いでいる。キリスト教からは、人間は隣人愛をもつという、解放者としての未来の夢を受け継いでいる。ルネサンスからは、合理的に世界を考察するという野心を受け継いでいる。プロイセンからは、哲学は第一の科学であること、国家はあらゆる権力の脅威的中心であるという確信を受け継いでいる。フランスからは、革命は人民解放の条件であるという自負を受け継いでいる。イギリスからは、民主主義、経験主義、政治経済学の情念を受け継いでいる。最後にヨーロッパからは、自由と平和という情念を受け継いでいる。
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位相空間論 概説

『数学事典』より

位相空間論が数学の分野として確立されたのは比較的新しい。集合論的位相空間論と代数的位相幾何学は、現在では区別される。後者では代数的手法によって問題を解く。集合論的位相空間論(位相幾何)の起源は実解析にある。収束の理論は、実数の演算、順序を表に出すことなく、点集合の性質のみを用いて展開できることを示した。こうして位相構造が第3の構造として抽象化された。すなわち、この構造では、近傍、開集合、閉集合、触点、集積点、収束、連結性、コンパクト性などの一般概念が定式化され、点集合は、それらを基にして分類される。

このように位相空間論が解析学を越えて発展したことに本質的に寄与したのは、その公理論的基礎付けである。幾何同様、数種類の点集合が、適切に選ぱれた公理系で特徴付けられる。

これは例えば,空間の任意の点に,近傍公理をみたす部分集合の系、すなわち近傍系を対応させて行われる。位相空問のこの定義は主にハウスドルフにまでさかのぼる。基礎概念「近傍」によって、中心概念「開集合」が捉えられる。位相数学にとって、後者の概念は、位相空問のもう一つの同値な定義としてより正当なものとなる。そこではまず部分集合族が開集合族として公理により提示され、次に開集合を用いて「近傍」が定義される。この、開集合族に基づく位相空問の定義によりいろいろな証明が容易となる。全開集合の系を位相と呼び、それらが部分集合であるところの根底にある集合をその位相の台集合と呼ぶ。

二つの位相空間の比較は、台空間の間の写像であり、双方の位相の開集合を関係付けるものにより行われる。台集合の間の全単射で、開集合族の間の全単射を引き起こすものが存在するとき、両者を同相な空間という。それらは位相的手段によっては区別できない。このような写像を、同相写像(ホメオモルフィズム)と呼ぶ。幾何学で考えたように、同相写像の作用に対して不変にとどまるような位相空間の性質が重要になる。そのような性質は位相不変量と呼ばれる。

一連の位相不変量は、さらに連続写像のような、より広いクラスの写像のもとで不変のままなことがある。もちろん同相写像はすべてそのようなものであるが、連続写像がすべて同相とは限らない。しかし、逆写像も連続であるような、全単射連続写像全体として、同相写像のクラスは完全に記述される。連続写像のもとでの不変量はすべて同相不変量であるので、位相幾何では実解析の場合と同様、連続写像が重要な意味を持つ。それゆえ、ユークリッド空間における位相幾何は「連続幾何」とも呼ばれる。2個以上の元を持つ底集合を位相空間化するには、実に多くの方法がある(p。205)。その内から何を選ぶかは、そこで展開されるべき理論に基づいて行われる。例えば、ユークリッド空間には、いわゆる自然な位相が与えられる。この位相が特別視されるのは、解析学への考慮からである。この位相での開集合を定義する際に用いられる性質は、2点間の距離が測りうること、すなわち、この空間が計量的であることである。この「測ること」は、ユークリッド計量と呼ばれる写像の性質として記述される。

ユークリッド空間の一般化は距離空間であるが、これらはユークリッド空間のように計量を用いて位相空間となる。全距離空間の類は純位相的性質によって、すなわち、計量そのものを使うことなく特徴付けられる(距離付け可能性)。集合の位相付けは、すでにある位相空間で、その集合と特別な写像によって関係付けられているものを利用して行われることもしばしばある。いわば位相を誘導するのである。この方法は例えば部分集合、商集合、直積、和集合などの位相付けに用いられる。

位相空間論の目的は、解析学での収束理論を可能な限り一般の位相空間に持ち込むことにある。そのため点列の概念は拡張されフイルター基(フィルター、p。216)が考察される。この理論は、しかし、特別な位相空間において初めて満足すべきものとなる。

ハウスドルフ空間は分離公理をみたす空間の類に属する。この類の重要なものとして、特に距離付可能性の観点から正則、完全正則、あるいは正規空間などがある。距離空間は、この類の空間の例となっている。

被覆の性質の考察から擬コンパクト空間、コンパクト空間などが定義される。コンパクト空間は距離空間と同様、すべての分離公理をみたしているが、すべての距離空間がコンパクトであるわけではない。しかしながら、距離空間はすべてパラコンパクトである。これはコンパクト性と正規性の間に導入された概念で、距離付け可能性に関して重要なものである。

位相空間論は、解析学、関数論、関数解析。徴分幾何などの、数学の多くの分野に基礎を与えるもつである。


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マルクスは大英図書館で著作

『世界精神マルクス』より ジャック・アタリ
大英図書館での研究
 ほぼ六年前に契約した経済学の書物を書き上げるために、エンゲルスの示唆で大英図書館へ通う。そこで狭い家によって奪われた静けさと熱気を満喫した。そして家では二人の妊婦がいざこざを起こしてもいた。大英図書館には他の亡命者もいた。彼らも「世界の運命を変える書物」を書こうと資料を探していた。
 カールはそこで貨幣、賃金、資本、投資、労働者の生活状態を研究する。「彼は朝早く行き、夜七時までそこにいて、家に戻って食事をし、書斎でタバコを吸いながら仕事をする」。イェニーも彼にどこかで賃労働の職を見つけてほしいと、非難するわけでもない。彼はますます経済学に没頭する。そしてますます政治に対する興味を失う。共産主義者同盟の会議にますます疎遠になっていったとき、チャーティストの指導者ジョーンズが来訪し、彼に民主友愛会について語った。社会民主国際協会を作ろうと考えていたが、カールは関心をもたなかった。彼はむしろ『タイムズ』の蒸気船ブレーザーの記事を読む方に気を取られた。これはドーヴァーとカレーの間の最初の海底ケーブルを敷設した船であった。そこに革命があると彼は考える。エングルスと電信で会話する、なんという時間の得か。
 一八五一年三月二十八日、新しい小さな家で、夫婦の五番目の子供フランツィスカが生まれた。三月三十日の調査では、そこには四人が住み(カール、イェニー、ヘレーネ、彼らを助けるためにやってきたその妹のマリアンネ、彼女もイェニーの母が給与を支払っていた。そして四人の子供(マルクスの生き残った娘三人と息子一人)。彼らは一年に部屋代としてニニポンド支払っていた。ヘレーネは子供の父親について明かすことはなかった。
 娘の誕生の三日後、誕生を知らせる手紙で、経済に関しては読めるものは読み終え、これ以上の仕事はないという手紙をエングルスに書く。「五週間以内でこのやっかいな経済学と手を切れると考えている。大英図書館で、別の学問を研究しようと思っている。経済学には退屈し始めているからだ。根本的には経済学はアダム・スミスとデヴィッド・リカードウ以来進歩はしていない。もちろん孤立した、とりわけ詳細な研究が進んではいるか」。この手紙でエングルスが演じるひとつの役割について述べている。次の手紙ではそのことについて書いていない。しかし、フリードリヒには、四月にマルクスがエンゲルスのもとを訪問する際、そのことを直接話そうといっている。ここで問題になっている秘密が何であるかは後に話そう。
 エングルスは皮肉をもって、しかしやさしく答える。「君は重要だと思う書物が見つかれば、書くことはないのだから」と。なぜならエングルスはマルクスの性格をよく知っていた。実際、カールは読み続け、書くことはない。
マルクスの可能性
 資本主義が、社会関係の商品化を完成し、資源のすべてを利用しつくすとすれば、しかも資本主義が人間を破壊することがないとすれば、世界的社会主義への道を開いてくれるだろう。言い換えれば、市場は友愛に道を譲るだろう。それを想像するには、マルクスが世界的社会主義を描いたときすでに作り出していた原理に戻る必要がある。すなわち、無償「生産」するのではなく、「創る」という芸術、共有、自由と責任の遂行に必要な財(「重要な財」)を自分のものにすることである。それを行う世界国家がない以上、地球規模による権力の遂行ではなく、マルクスが好んだこの「革命的進歩」、世界精神へ移行することによって成し遂げられるだろう。責任と無償に進まねばならない。すべての人間が世界市民となり、最終的には世界は人間のために作られることになろう。
 その際、カール・マルクスを再読する必要がある。そこに、過去の世紀の間違いを再度犯さず、間違った確信に進まないための原因を汲みとることができよう。権力はすべて可逆的であること、理論はすべて異論によってつくられるということ、真実はすべて乗り越えられるものであること、専制は死を招き、絶対的善は絶対的悪の源泉であることを認めるべきだろう。思想はすべてを説明することなく開き、反対意見を認め、原因と責任、メカニズムと行為者、階級と人間を混同してはいけない。
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