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ネアンデルタール人と現生人類

パートナーの相談

 昨日は9時から1時間の電話相談。今日も21:05~22:02までの電話相談。

 日曜日のスタバから三日連続。依存症になりそうです。反作用が恐い。

ネアンデルタール人と現生人類

 ネアンデルタール人と現生人類との団体での行動。男女が分かれずに、団体行動をしていたネアンデルタール人。男女が分かれて、それぞれが役割を果たす現生人類。それによって、子育てという作業で、繁殖するのに便利だった。

 「現生人類がさまざまな食物を食べていたことから、男は大きな動物を狩り、女は木の実や種、果実などを集めて調理するというように、仕事の分担が促されたのだと提唱した。対照的にネアンデルタール人の食料は大きな動物がほとんどだったので、おそらく女も子どもも狩りに参加し、待ち伏せしている男のほうへ動物を追い立てたのだろう。現生人類は仕事の分担によって食物をより安定的に確保し、子どもが育つ環境も安全となったので人口を増やし、ネアンデルタール人は減っていった。」

 移動するエネルギーにしても、現生人類の方が少なかった分だけ、子育てに時間が掛けられた。

 寿命が延びることによって、ネットワークと知識の蓄積が拡大した。3世代のまとまった形で、継承が楽になった。

 「現生人類の生き残りを重要な方法で後押しした可能性のある相違点だ。長生きして孫ができるようになる現生人類の数が約3万年前に急増し始めた。特別な知識、例えば干ばつの際にどこに行けば飲み水が見つかるかといった知識を獲得して、それを次の世代に伝承する時間が増えた。」

 ネアンデルタール人は20万年に亘って、生存した上で、2万年前に忽然と消えた。それぞれの部族の原因で消えていった。

複雑性の縮減

 「ルーマンによれば、社会システムの基本的な機能、すべての機能の前提となる基礎的な機能は、複雑性の縮減である。複雑性とは、「要素および要素間の関係」の可能性の集合のことであり、社会システムの場合には、要素はコミュニケーションである。システムにとっては、世界は、大きすぎる複雑性として現れる。過剰な複雑性はシステムにとっての根本問題である。システムが成り立っている状態は、世界の複雑性の中から、承認されたりしている可能性が制限され、限定されていることを指している。つまり、社会システムの内部では、論理的に可能なコミュニケーションは限定され、その一部しか現れない。」

新しい数学

 新しい数学。何が新しいのか? どこが新しいのか? 数学の教科書と全然、違うもの。空間の作り方、空間の重ね方。どうしても空間論に来るけど、なかなか、アイデアと空間が結びつかない。

 その意味では、トポロジー狙った所の社会の疑似空間のモデル化。そこでは、点が集合になり、集合が点になり、次元を圧縮・拡張する。複雑性の周縁から変わっていく。中核を変えて、また周縁に来る。その様相みたいなもの。

 本当の数学は特異点を除去しながら、それを重ねながら、一つの空間を作り上げて、そこでやっていくということ。そのモデルそのものが、コミュニティと地域と国との関係で空間化される。その要素は人です。

 空間に関する三つのことが具体的なことでどう変わっていくのか? 今の組織という空間をどう乗り越えていくのか。

人のつながり

 人のコミュニティ、というか近傍は情報共有です。情報共有で一人の人間がどうつながっていくのか。人のつながり方で要素が変わり、それが次の時代に亘るのかどうかは、現生人類の経験が活きるかもしれない。

 ネアンデルタール人はあまり、共同作業をしなかったが故に、自分でやることが多くなり、子供を育てる方に力が割けなかった。

 平均寿命が短くなることが、直接、絶滅につながったわけではない。三世代に跨ることで、経験をつなげていくこと、余裕を持たせることができた。子どもを育てるために専念でき、分散化ができる。一家族6人とか8人ならば、分化できるけど、2人だとそれができない。

 働くことが中心となると、分化ができない。家族という小さな単位で分化ができたかどうかで、現生人類とネアンデルタール人の差が出来てきた。
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ウィトゲンシュタインの「あの世」

『ヨーロッパ思想を読み解く』より

向こう側についてのウィトゲンシュタインの立ち位置がわかったので、今度は「あの世」についての考えを見てみよう。キリスト教徒にとって、世界の終末にイエス・キリストが再臨し、死者を甦らせて審判をおこない、天国で永遠の生命を与えられる者と、滅されて地獄に墜ちる者とに分けられるというのが、一般的な考え方だが、この「あの世」のうちの天国が、神さまのいらっしゃるいわゆる神域である。

キリスト教徒の哲学者にとっては、「向こう側」は「神域」と地続きなのであり、本書でバークリについて語った始めから、彼らにとっては一貫してそうである。ウィトゲンシュタインの考えは次のようなものだ。人間の魂が時間的に不死であること、従って死後も魂が永遠に生き続けること、はいかなる仕方でも保証されていないだけではない。なかんずくこの仮定が、人がいつもこれによって解決したいとすることを、全然果さないのである。私が永遠に生き続けることによって謎が」体解決するとでもいうのか。今度はそもそもこの永遠の生が、現在の生と全く同様に謎めいてはいないのか。時間空間の中での生の謎の解決は時間空間の外にあるのである。……

いかに世界があるかは、より高貴なことにとっては全くどうでもよいことである。神は世界の中に自らを啓示しはしない。……

神秘的なのは世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである。

ウィトゲンシュタインの場合は、「世界は私の意志から独立で」あり、私が死ねば、私にとっての「世界が存在することを止める」のであり、永遠の生については保証されていないし、語り得ないのだから沈黙すべきだ、とするのである。「神を信じるとは、生が意義を持つことをみてとること」だとも言っている。

つまり、「向こう側→神域」はこちら側の世界の時空の外にある。私が死ねば私はどうなるかはわからない。「死は世界の事実ではない」。「こちら側」の世界も神秘的なことになぜかあるのだが、神はこちら側には啓示しないのだから審判はないことになる。神を信じることで私は私の生の意味を知るだけだ、というのである。ウィトゲンシュタインは、ユダヤ系のカトリックなのだが、「あの世」は非常に消極的なものになっている。

ただし、彼の哲学は消極哲学であるとは言えない。彼自身が向こう側に立ってしまうからである。向こう側に立って、彼はこちら側に向かい、「世界の意義は世界の外になければならない」と積極的に宣言するのである。

そして、彼はこちら側に戻ったときには、同一性の否定から世界の対象の総計をも激しく否定する。ジョンやピーターは、自分自身については語れるが、互いについては語れない。いわんや、総計の「人間」について語れるはずがない、というイギリス唯名論の極致である。

消極的なのは、向こう側に立ったときに彼が振り向かないことである。そこは神域であり、明らかに彼は神秘的なものを信じていると言える。その「私」は、より高貴なものにとってはどうでもよいものなのである。
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ウィトゲンシュタインの「バシリスク走法」

『ヨーロッパ思想を読み解く』より

ウィトゲンシュタインは、興味深い哲学者の一人である。いま今では、彼は向こう側への対処の新しい考案者として登場してきたと言うことができるだろう。だが、たぶんそれは、当時の彼の自意識にとって無意識だったはずである。彼は、この世の向こう側、集合なので諸「向こう側」と言おう、それを次々と跳び移るという離れ業をやってのけた。水面に足は掛けるが、決して沈みはしない、キリストトカゲ(バシリスク属)のように走り抜けるのである。

例えば「私がその箱を観ていない時、それはなお存在するか」という問への唯一の正しい答は、「もちろんそうだ、誰かがそれを運び去ったり破壊したりしていなければ」というものであろう。哲学者はもとよりこの答に満足しないであろうが、この答は彼の問題提起を全く正当に論破するものである。

これは本書、第一章のバークリの問題提起に答えるものである。バークリによれば、我々が感覚するのは物質の実体ではなく、ゲンニピゼッシンから得られた物質の被膜にすぎない。その向こう側をバークリは物質的実体と呼び、永遠にわからないから問うてもムダだ、ないも同じだと言った。ならば、あそこにある箱はバークリが見ているときにだけ存在するのかという問いが生じる。バークリはそれに対して、箱があったことを私はかつて見て知っている。その経験が私に箱の存在を示 唆するのだ、と答えるのである。

このときの立ち位置が、ウィトゲンシュタインでは異なる。バークリでは「私は箱を知覚する」「私は箱を経験する」に立っているのだが、ウィトゲンシュタインのほうは、「箱は物理的に実在する」なのであり、その箱の向こう側に一瞬サッと立ってしまうのである。だから、彼は箱を向こう側から見ていて、誰かが来て箱を運び去ったり、壊したりしなければ、箱はそこに在るのだ、というのである。そして理由づけをする。

「私はχを知覚する」というこれだけの語り方にしても、既に物理的表現方法からとられており、ここでのズは物理的対象--例えば物体--のはずである。この語り方をxが生のままのデータを意味せねばならない現象学で使用するのが既に誤りである。というのもいまや「私」も「知覚する」も初めと同じ意義を持つことが不可能であるから。

世界は物理的言語で語らなければならない。だからバークリのように、経験論をもってきても、物自体の外にいるのでは世界を語ったことにはならない。だから君たちは世界を語れない、と、ウィトゲンシュタインは物の向こう側から諭すのである。

で、すぐに飛ばないと自分が神になってしまうので、ウィトゲンシュタインはそこに居続けられない。次には「Aが歯痛を持つ」という課題に即移る。そして「痛み」の向こう側に立とうとするのである。

それこそ誰も持たない痛みとはおよそどのようなものなのか。それこそ誰にも属さない痛みとは。

と、向こう側を必死に探すのだが、見つからない。それより前に「私の感覚はこの身体を超えてぴろがることは決してない、ということである。これらは注目すべき興味深い事実である」と、言ってしまっている。そこで結論はこうなる。

私が知っている歯の痛みの感覚という現象は、日常言語の表現様式では「これこれの歯に私は痛みを持つ」によって描出されるのであり、「この場所に痛みの感覚がある」といった種の表現による訳ではない。この経験の領域全体は今の言語では「私は……持つ」という形式をした表現によって記述される。「Nは歯痛を持つ」という形式の諸命題は全く別の領域のために取っておかれている。従って「Nは歯痛を持つ」といった諸命題にはじめの仕方で経験と連関するものが発見されないからといって、驚くにはあたらないのである。「痛み」の向こう側はなかった。私の歯痛は私の身体を超え出ることはない。日常言語では「これこれの歯に私は痛みを持つ」という表現をする。ラッセルとは異なり、ウィトゲンシュタインにとっては、我々の日常言語はそのままで完全に論理的秩序を有する。「私は……持つ」と、言うしかない。「私は……持つ」は、「中田君は歯痛を持つ」という形式の諸命題とは別物である。「この場所に痛みの感覚がある」という、歯痛の向こう側には立てないのだ。だから、「考えることによって経験をいわば延長できると思っている哲学者達は、電話によって話を伝えることはできるがはしかを伝えられないことを考えてみるべきであろう」と、こちら側に戻り、人間はみな同一で、「人間」だという概念に実体があるとする「実念論」に無効を宣言するのである。

ウィトゲンシュタインの主著が「いわゆる哲学書の体裁をなしていない」と言われるのは、この諸「向こう側」を走り抜けるバシリスク走法のためである。一瞬でも、向こう側の立ち位置が維持できれば、こちら側の弱点はすべてお見通しとなる。

ゆえに彼は、「世界の本質に属することを言語は表現できない。……表象可能なことだけを言語は語ることができるのである」、「世界の意義は世界の外になければならない。……世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。それは世界の外になければならない」と言えるのである。
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