goo

岡崎図書館の10冊

335.8『ファンドレイジングが社会を変える』非営利の資金調達を成功させるための原則

361.4『メディアの臨界』紙と電子のはざまで

223.5『カンボジア 密林の五大遺跡』

410『数学記号の誕生』

146.8『実践・家族面接』匠の技法に学ぶ

699.6『プロパガンダ・ラジオ』日米電波戦争幻の録音テープ

336.3『オーガニゼーションズ』現代組織論の原典

134.9『超訳 ヴィトゲンシュタインの言葉』

135.5『ドゥルーズと狂気』

289.1『坂本竜馬からの手紙』全書簡現代語訳
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『心理学辞典』感情

『心理学辞典』より 感情

今から遡ることおよそ2千4百年前、プラトンは、人の魂が理性と熱情という全く異種なる2頭の馬車馬によって引かれる様を思い描いていた。彼の想念の中では、あくまでも、理性は魂を正しき方向へと導く端正美麗な賢馬であり、他方、熱情は魂を悪しき方向へと導く胡乱醜悪な悍馬であったのである。実のところ、こうした喩えは、多少形を変えながらも、古今東西、多くの社会文化において、暗黙裡に共有されてきたものといえる。ヒトを人間たらしめるのは、あくまでも理性、すなわち人の心の認知的機能であり、熱情、すなわち人の心の感情的側面は、人間本来の崇高なる精神生活をかき乱す、無秩序で非合理的なものという扱いを受けてきたのである。そして、こうした感情に関する見方は、心理学の歴史の中でもほぼ同じであったといえる。確かに心理学における感情に対する刮目は、心理学の祖ともされるジェームズの中に既にあったわけであるが、その後、とりわけ行動主義が心理学を席巻する中、感情は徐々に心理学の中心的課題から除外されるに至る。人間の感情的側面が取り上げられることがあっても、それはどちらかといえば、不適応や狂気等との関連で問題にされることが多かったのである。

しかし、近年、こうした非合理性を前提視する感情観は大幅に揺らいできている。感情は理性あるいは認知と対立するものではなく、むしろ、それらと協調的に結びつき、人の種々の適応を支えるものと考えられるようになってきているのである。それは一つには、生物学的機能という視点から、感情が、ヒトという生物種においても今なお、個体の生き残りや繁殖を高度に保障する役割を果たしていると考える向きが大勢を占めるようになってきたからであり、もう一つには、社会的機能という視点からも、顔や声を通して発せられる種々の感情が人と人との間をつなぎ調節し、また社会やその価値観及び制度を維持する上で、必要不可欠な働きをなしているという認識が一般化してきているからにほかならない。感情が、ここに来て、生物学的にも社会的にも、ある緻密な法則性の内にあり、様々な場面で人を合理的な行動へと導きうると考えられるようになってきているのである。

それでは、こうした理論上の大きな転換は、どのような知見に支えられて生じてきたのだろうか。本領域では、近年、とみに進展著しい感情研究の先端的知見に基づきながら、主観的情感のみならず、神経・生理、表情・行為傾向と、多側面にわたる人の感情の性質と機序、またそれに密接に関連するストレスや感情的知性等のトピックについて概説を行う。

本領域は内容的に、大きく五つのセクションからなっている。

第1群では、感情研究の最も基礎的な部分、すなわち感情とは何か、どのような性質と機能を有しているか、心理学の中でそれはどのように研究されうるかを扱っている。 01では、感情と総称されるものが、情動(emotion)を中核として、気分(mood)、情感(feeling)等、幾つかのカテゴリーに分けて把捉されうることを示した上で、それらに通底して在るものは何かについて解説する。02では、感情が基本的に、情感、表情、生理的変化等、複数の構成素からなるものであり、そのため、その研究法も多岐にわたることを記す。03では、感情の働きが個人「内」機能と個人「間」機能に大別されうること、そして感情の本質が、正負両面の両刃性にあることを概説する。

第2群は、感情の成り立ちに関わる二つの対立する理論的立場を取り上げたものである。04では、ダーウィン以来の、感情を進化の産物と見なし、少なくともある特定の感情は、ヒトに生得普遍に備わったものであるとする感情の進化的見方について触れる。それに対して05では、感情の文化相対性を前提視し、種々の感情が社会文化的に構成されるのだとする感情の文化的見方について解説を行う。

第3群は、感情を構成するそれぞれの構成素に関する各論になっている。06では、ジェームズとキャノンの論争という形で、心理学の中で最も早くから研究が行われた感情の身体・生理的側面に関して、その要点を記す。07では、感情の発動及び各種感情の分岐に先行する認知的機序として、精力的に研究が展開されている認知的評価(appraisal)を取り上げ、その基本的な理論モデルの概要を示そう。一方、08では、いったん生起した感情が今度は、記憶や思考といった後続の認知的活動にいかに影響するか、また感情が音楽や絵画といった芸術活動にどのような働きをなしうるかなどについて、そのあらましを記す。09では、感情の表出的側面、ことに顔の表情に焦点化し、それが他の個体に対して、どのような機序でいかなる意味を発するのか、また表情が翻って主観的情感に対してどのように影響しうるかなどに関して解説を行う。

第4群は、感情の様々な種類に関する各論となっている。10は、多くの場合、ヒトが進化の過程で獲得したものとされ、その発動機序も最もシンプルなものとされる、いわゆる喜怒哀楽、すなわち基本情動を取り上げる。11では、恥や罪悪感、誇りといった、自己意識を基盤として生じる、より高次で複雑な感情たる、自己意識的感情に関してその概略を示す。12では、自己意識的感情とも重なるが、人が他者との関係性の中で経験する、妬みや嫉妬、あるいは公正感や感謝といった、種々の社会的感情を取り上げ、それが社会的比較等、いかなる社会的認知の下で生じうるか、また、それが対人関係にどのような意味を有しうるかについて説明を行う。

第5群では、感情を巡る心理学の中の主要トピックを扱っている。13では、感情が、ことに集団状況で、どのような社会的行動と結びつき、何を引き起こしうるかについて、流言、扇動、ハニック等との関連も含めて、解説を行う。14では、感情とストレスの密接な関連性を前提とした上で、ストレスがいかなる機序で生じ、時に心身症等の重篤な問題を招来しうるかなどについて、感情労働の問題等にも言及しながら、要点の整理を行う。15では、近年、ポピュラー・サイコロジー等においても議論のかまびすしい、感情的知性を取り上げ、現行の様々な理論モデルにも触れながら、感情・表情の理解や制御の側面も含め、それがどのように概念規定されうるか、また実践的にいかに応用されうるかなどについて説明する。最後に16では、感情の発達に関して焦点を当て、乳児期からその後の発達過程において、基本情動や自己意識的感情がいかに萌芽し、発達するのか、また感情の理解や制御の能力が、どのような要因との関わりの中で、子どもの内に徐々に準備されてくるのかなどについて、これまでの基本的な知見をまとめておくことにしよう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

広告を減らす

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』より 終わりなき競争からの脱却

消費に駆り立てる圧力に拍車をかけているのが、広告である。広告は、消費者がすでに欲しいものの入手を「お手伝いする」だけだとよく言われる。それが本当だとしても、私たちの主張は揺るがない。そもそも人は欲しいものではなく必要なものをまず手に入れるべきだ。それにいずれにせよ、広告が欲しいものの入手を手助けするだけだという説明は真実ではない。

毎度のことながら、経済学者は複雑な問題を単純明快だが誤ったやり方で説明しようとする。広告の役割についての彼らの説明は、「合理的な消費者」仮説に基づいている。すなわち合理的な消費者は、競争市場において効用を最大化するような購買決定を下す。このモデルでは消費者はすでに明確な「効用関数」を承知しているので、広告でその選好が変わる余地はない。広告の唯一の役割は情報提供であり、製品の名称、品質、価格などを知らせて、消費者がよりよい選択をできるようにする。だから子供の保護や詐欺行為の防止以外の目的で広告を規制する必要はないという。広告についての好意的な見方はいろいろあるが、基本的にはこのパターンの変形である。どのような方法をとるにせよ、広告は消費者がすでに欲しかったものの入手を手伝うにすぎない、ということだ。となれば、定義からして消費者が買いたいものを買うのだから、「過剰消費」ということはあり得ない。

この「広告=情報提供」論は、かつてはいくらか頷けるところもあった。二〇世紀前半の広告は、比較的事実に基づいていたからである。だがしだいに広告は現実から乖離するようになり、今日では大半の広告が情報を含んでいるとは言いがたい。その目的は製品について何らかの雰囲気を醸し出し、魅力を強調して誘惑すること、要するに、広告を見なければ欲しいとは思いもしなかったものを欲しがるように仕向けることだ。大成功を収めた二〇〇三年のiPodの広告では、里一いシルエットの人物がネオンカラーを背景に陶酔して踊り狂うだけで、それ以外何も登場しない。この広告の目的が情報提供ではなく感覚刺激にあることは、どうみても疑う余地がない。

こうした事実を突きつけられても、経済学者は広告についての寛大な見方を変えようとしない。ただ、多少の言い訳はしている。たとえば、製品情報をまったく含まない広告であっても、すくなくともある一つのことだけは消費者に伝えるという。それは、広告主である企業は、大枚の広告予算を投じる程度には製品の評判を気にしている、ということだそうだ。別の説によれば、広告は製品のイメIジを強化することでその製品の価値を高めるという(あなたは単にルノーを買うのではない、va va voom"〈ワオー、スゴい!〉も買うのだ、という具合に)。中でも最も独創的なのは、ゲーリー・べッカーとケビン・マーフィーの主張である。彼らによれば、仮に消費者の選好が広告によって変わるとしても、それは選好を変えることの事前選好(お好きならメタ選好と呼んでもかまわない)が存在したからだという。これ自体は別に悪いことではない。鉛筆を買ったら鉛筆削りが欲しくなるのが悪いことではないのと同じである。ただ、鉛筆とはちがい、広告はこちらから求めるわけではない。べッカーとマーフィーがあっさり認めたように、「広告には不安や焦燥を生んだり、他人の成功や幸福への羨望を掻き立てたり、さらには親あるいは子に対して罪悪感を募らせる効果もある」。広告が愉快な記事やテレビ番組に埋め込まれることが多いのはこのためで、広告を見るマイナス効果を埋め合わせるという。それでも、人々が自発的に広告を見るという事実からすると、広告は好みを変えさせるというよりは、何かの足しになるとみなされているらしい。たしかにインターネットはご親切にも、ユーザーの注文履歴と類似の商品を「お奨め」してくれる。

広告に関するこれらの新古典派的な見方は、人々が市場に来るときにはすでに選好は定まっていて、それを最大限に満足させようとするという前提に薬づいている。しかしこの見方は、市場が満たすとされる選好そのものを、じつは市場が形成していることを見落としている。ヘーゲル哲学を基礎とするマルクス主義の伝統のほうが、人間の欲望(あるいは彼らの用語に倣うなら「ニーズ」)が変化しやすく関係性に左右されやすいことに敏感だった。ヘーゲルは、「ニーズは……必要性を直接感じた者によって生み出されることよりも、その創出から利益を得ようとする者によって生み出されることのほうが多い」と書いている。この考え方が、やがてマルクーゼのコンシューマリズム批判(第2章参照)やガルブレイスの『新しい産業国家』(一九六七年)の基礎になった。ガルブレイスは同書の中で、生産プロセスを掌握する生産者は、消費者のニーズを自分たちの生産物へと誘導すると指摘した。一九五〇年代に全米最大手の広告会社の社長だったスタンリー・バーネット・リーザーも、同じことを述べている。

「消費者は二台目のクルマの必要など感じていない。こちらが必要だと気づかせない限りはね。このニーズを消費者の頭の中に作り上げなければならない。二台目のクルマがどんなにすばらしいか、気づくように仕向けなければならない。ときに消費者は、そんなものを買うという考えに敵意を抱いていることさえある。だが広告は、こちらが望む方向に需要を変える力のある教育的な手段だ。もっと高い生活水準があるのだと人々に教えれば、現代の生産性と資源に釣り合う程度まで消費を増やすことができる」

広告が貪欲に火をつけるのだとしたら、制限する理由は十分にある。実際にも、酒やタバコなど「悪行商品」の広告は規制されているし、子供を広告から遮断する措置も講じられている。たとえばスウェーデンとノルウェーでは、子供向け番組での広告は全面的に禁止されているほか、一二歳以下の子供をターゲットとする商品の広告も禁止である。またヨーロッパの多くの国では、広告を番組の前後にまとめて放送するよう指導している。こうすると視聴者はCMを見ずに済ませられるので、広告主はテレビ広告に食指を動かさなくなる。残念ながらイギリスでは、過去数十年間の全体的な傾向として、広告規制を強化するどころか緩和の方向に向かっている。保険会社の広告を禁じる規制は一九八四年に廃止され、アメリカ流の保険金請求がどっと増えた。テレビ番組の中でのプロダクト・プレイスメント、すなわちスポンサーの製品を番組中で使用することは禁止されていたが、これも二〇一一年に解禁となっている。ただしいまのところ、まだその影響はあきらかではない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ベーシック・インカム

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』より 終わりなき競争からの脱却

ベーシック・インカムは、「すべての国民または審査に合格した住民に対し、就労の意志の有無を問わず、また資産状況の如何を問わず、言い換えれば所得の源泉とは別個に、かつ同居家族の状況とも無関係に、国家が保障する所得」と定義できる。

ベーシック・インカムは、「ミニマム・インカム(最低所得保障)」とはまったく別物である。ミニマム・インカムは、所得がいわゆる「貧困ライン」を下回らないようにすることが目的で、給付に際しては資産や収入を調査するし、積極的に求職活動をすること(イギリスの場合、失業給付は「求職手当」という名称に変更された)、あるいは賃金が極端に低いことが受給条件となる。これに対して、べIシックーインカムは無条件に全市民に支給される。給付額は、理想的には、各人がどれだけ働くかを自由に選択しうるだけの水準であることが望ましい。

ベーシック・インカム(ときに「市民所得」と呼ばれることもある)という発想には、きわめて長い歴史がある。最初の提唱者は一七世紀のホッブズであり、一八世紀にはイギリス出身の社会哲学者卜マス・ペインが、一九世紀にはフランスの哲学者シャルル・フーリエの後継者が続いた(ジョン・スチュアート・ミルも好意的に言及した)。ジェファーソンの系譜に連なるアメリカの思想家も、ベーシック・インカムを支持した。その後も、クエーカー教徒、社会主義者、経済学者のジェイムズ・ミード、サミュエル・ブリタン、社会哲学者のアンドレ・ゴルツらがベーシック・インカムに賛同している。一九四三年には、リベラルな政治活動家リース・ウィリアムズ女史が「社会配当制度」を提唱した。所得税を財源として、所得の多寡を問わずすべての世帯に支給し、国民所得が増えれば社会配当も増額されるしくみである。もっと最近では、たとえばミルトン・フリードマンの「負の所得税」も社会保障の安上がりな提供方法とされている。負の所得税は、所得が下限を割り込んだすべての人に支給される一時払いの現金である。市場水準の賃金では最低限の生活もできない場合に、所得に上乗せする形で支給する「ベーシック・インカム」も提唱されている。これは従来、税額控除の形で広く実施されてきたものに相当する。

初期のベーシック・インカム論者の大半は、国民にはベーシック・インカムを受け取る権利あるいは資格があるとする。代表的な主張は、そもそも国家が略奪したのだから、その償いとして、国民には国家の継承資産(天然資源おょび世襲資産のストック)を共有する権利がある、というものだ。彼らの多くは、個人の自立と余暇の価値を重んじる。

無条件無差別の所得保障という純粋な形のベーシック・インカムは、つねに二種類の反対に遭ってきた。第一に労働意欲を削ぐ、第二にそんなものを支給する財源はどこにもない、という。こうした反論の結果、ベーシック・インカム制度を実際に採用しているのはアラスカとアラブ首長国連邦(部分的な適用)だけとなっている。これらの国や地域は多くの労働力を要しない天然資源で富を築いているため、国民に提供できる雇用機会が少ないという事情がある。

しかし、問題が窮乏ではなくゆたかさであって、政策の主目標が成長の最大化ではなく基本的価値の確保だとしたら、二種類の反論はどちらも力を失う。この状況では、むしろ余暇をより魅力あるものにして労働意欲を抑えるべきだ。それに、富裕国はしだいにベーシック・インカムを捻出することが可能になっている。無条件のベーシック・インカムが支給されれば、現在フルタイムで働かざるを得ない人の多くが、パートタイムを選択できるようになるだろう。現状では、どんな条件でどれだけ働くかの決定権は資本の所有者が握っているが、その選択肢が労働者全員に与えられるようになるはずだ。ブリタンは二〇〇五年に、たいへん魅力的な表現でベーシック・インカムの論拠を示した。

「ベーシック・インカムの目的は、市民一人ひとりを小さな地主にすることにある。マルクス主義者がさんざん非難した私有財産と不労所得は、けっして本質的な悪ではない。問題は、持ち家を除きそれを持っている人があまりに少なく、その少数だけが経済的自立に伴う恩恵をすべて享受していることだ。われわれが望むよりよい社会では、そうした恩典がもっと広く分配されているはずである」

少々紛らわしいのだが、ベーシック・インカムと呼ばれているものは二つの形をとりうる。一つは資本の授与、もう一つは年間所得の保障である。資本は将来の期待利益を現在価値に割り引いたものにすぎないから、厳密にはどちらも同じだと言えるかもしれない。ただし、資本の所有者には選択肢が生まれる。所得で生計を立ててもいいし、資本を使って家を買ったり、事業を興したりしてもいい。もちろん貯蓄してもいいし、人に貸してもいい。所得保障が生涯にわたって生活を安定させるのに対し、資本授与は選択の自由度を高める。どちらかと言えば、私たちは資本授与を支持する。可処分資産を広く分配するという所期の目的を達成し、ひいては尊敬と人格の基盤作りに寄与すると考えられるからだ。ただし、ある基本的価値が他の基本的価値を排除することがあってはならない点を考慮すれば、ベーシック・インカム制度は資本授与と所得保障の二本立てにするか、どちらかを選べるようにするとよいだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

10月から新生活

未唯空間の項目アピール

 それぞれのところをもっと強く主張しないといけない。多くの人が生きられる、これって重要な概念です。どんな小さな項目でもアピールすることです。それによって、差別化します。

 そういう分化をしながら、統合として何をしていくのか、どういう世界に持って行くのか、何を参考にするのか。そういう意味では、大きなところで出来ていることをまとめていくだけです。どういう側面でまとめていくのかで違ってきます。

 それと別のところとどういう関係にしていくのか、という発想の転換です。それと自分の中の固有なもの、それとベースとすること、孤立と孤独な世界からどう作っていくのか。

10月から新生活

 10月からの新生活にとって、何が必要なのか。まずは、部屋のダニ退治のバルサンです。

 会社は何しろ、空っぽにしておきます。パソコンの中身も。本当にこれが人間の役割なのか。そして、スマホでのコミュニケーション。

 一番にすべきことは、自分がそこに居ることで何が変わるのか。

 何しろ、居なくなってもいいように単純にしていく。

 137億9千万年掛けて、何を達成してきたのか。今は、137億年の瞬間なのか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )