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所有権放棄ビジネスの可能性

ネックキャリーのみ

 身一つにするために、デジタル化。そのために、コートにしました。何も持たない。退職後になっているので、今日は名古屋まで散歩です。

歴史の必然性

 歴史の必然性、多様性とグローバル化は両方とも空間的なモノです。多様化すれば、多様体になります。単にそれだけです。それが人類の知恵です。数学の範囲だけではない。

 歴史の中に分化と統合が出てくるのは当たり前です。多様化するから、近傍系と標準関数で全体を作り上げていく。近傍系である限りは点から始まります。点から周りを巻き込んで。それらをチェーンでつなげていく。バラバラでなくて、統合化するのは、標準関数が必要です。

歴史のなかの循環性

 多様体の中には循環という考え方があまりないです。循環はどこから持ってきたのか。私の場合は持続可能性です。

 トポロジーからするとマルコス連鎖の類からでしょう。大学3年の時のポントリャーギンの『連続群論』には憧れました。本が高かった。1957年の本です。中古本の方が高い世界です。あの頃は、数学の本を買うために、バイトを行っていた。一番高かったのは、ブルバキの『数学史』で3500円だった。丸二日間、段ボール工場で働いた。

やることがあるでしょう

 あそこが痛いとか、ココが痛いとか言っていてもしょうがないでしょう。そんなことよりもやることがあるでしょう。

所有権放棄

 所有権を歴史の中でどう考えるか? ということで、「未来方程式」の中に「所有権」を入れました。本がデジタル化して、著作権が変わり、ザナドゥー空間のように全体の体系化を行われることを考えると、所有権放棄は歴史の必然です。一種のウィキペディアの世界です。

 今後の所有権とか著作権がなくしたカタチでのビジネスが増えます。実際、グーグルはそれを行っています。宇宙産業のステラもNASAの権利をふんだんに使うのでしょう。これは、軍事目的のインターネットの辿った道です。独占ではなく、共用が人類の進化を促します。最終段階での進化です。

 電気自動車も図書館ももっと異なったものの所有権を対象としたものになる。そのためには、相手の状況を知らいといけない。それによって、ローコストになることが目に見えています。ローコストになれば、モノを作らなくてもよくなるし、エネルギーも使わないで済みます。

いいクルマ

 「いいクルマ」の定義が変わってきます。誰にとって「いい」ことなのか。メーカーではない。使用者でもあるし、環境にとっての「いい」になるでしょう。

 プリウスを京都環境会議に意気揚々と持って行った時に、環境の連中からはブーイングだった。それで車の数が増えることを問題にされた。その観点は持続可能性です。持続可能がなければ、意味がない。と同時に、人口が増えることでメリットが増えるモノでないと持続できない。

PETM事件

 5500万年前の変動。急激に温暖化が地球に起こった。インド大陸がユーラシア大陸に乗り上げた。その時にエレベストができると同時に、二酸化炭素濃度の急上昇。その時に、数千年で気温が5度上がった。

 氷河期のサイクルは数万年で3~4度。それに対して、数千年で5度というのは、急上昇です。
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コピー・ライトを「知的所有権」という概念で拡大

『メディアの臨界』より ネット時代の著作権

ネット時代の基本動向について折に触れて含蓄ある発言を続けているミッチ・ケイパーは、「コピーライトの問題は、ネットにおけるヴェトナムである」と言った。これは、なかなか意味深い。まず、コピー・ライトという概念は、アメリカにおいて「知的所有権」という概念として拡大された。この概念に同調することを世界各国に迫っているのはアメリカである。そして、この知的所有権というものは、アメリカがヴェトナムにゴーディン・デェム政権を作ったのと同じように無理がある。憲法には、しっかりした定義があるのに、それを無視して手前勝手に期間を延長するところも、ヴェトナムに似ている。この分で行けば、知的所有権などというものは、いつも強権を発動してごり押しをするアメリカという国のエピソードにすぎないことが判明する日が来るだろう。しかし、ヴェトナム戦争のようなばかげたことはもうしないと思われたアメリカが、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、そしてイラク攻撃と、歴史の忘却をくりかえしているところを見ると、知的所有権も、当分だらだらと生き残るのを覚悟しなければならない。

コピーライトから「インテレクチュアル・プロパティ」へと表現を替え、概念を不当に拡大しても、「知的所有権」という概念の限界地平は見えている。知的所有権には、著作権、特許権、商標権、実用新案権、意匠権、植物新品種権、商号権、回路配置権、ビジネス方法権、微生物特許等々、かぎりない分野の独占権が含まれるが、基本の概念はコピーライト、つまり「複製可能性」に関する権利である。ところが、この「複製」の技術が、二〇世紀後半を境にして、ドラスティックに変化した。

二〇世紀のテクノロジーは、複製を可能にする技術を限界まで押し進めた。当初、複製は、オリジナルのある複製だった。だから、最高の価値はオリジナルであり、複製は贋作、ニセの製造にとどまっていた。が、これがデジタル技術の発達とともに、オリジナルなき複製、複製の複製になっていった。これは、SP/LPレコードからCD/DVDへの変遷を考えれば、容易に理解できるだろう。

レコードには、まず、「マスター盤」があった。レコードは! 一度聴けば、針によってこすられることによって「マスター版」とは異なるものになってしまう。そして、マスター版ですら、アナログ録音の技術のなかでは、マスターテープと同じではない。さらに、生演奏の録音である場合には、そのマスターテープでさえ、オリジナルとは異なる。ここでは、オリジナルである生演奏が最高価値を占めるのである。デジタル録音のCD/DVDでも、このことには変わりがないが、デジタル録音にいたって、最初にアコースティックな生音があり、それが録音されるのではなく、最初からデジタル信号としてしか存在しないような演奏が次第に増えて行く。デジタル媒体で聴くことが、聴覚的に最初の演奏体験であるような演奏だ。ここでは、「オリジナル」ということが意味をなさない。

本の複製とコピーライトの問題は、レコードやCD/DVDとは異なる側面を持っているということについて考えておく必要がある。これは、知的所有権の問題が、依然としてコピーライト、複製可能性の問題であることを明らかにする。

本の複製は、ある意味で、最初から今日のデジタルディスクにおとらず複製中の複製、オリジナルなき複製であった。それは、文字というメディアが持つ抽象化作用と関係がある。文字は、「字面」だけを読むのではなく、その先の概念を読むわけだが、本は、レコードとちがい、多少の汚れや傷によってもその「オリジナル」性が損なわれることはない。たしかに、骨董品/物としては違うのだが、印刷された本は、通常、すべて同じものと見なされる。同じ版の本を何回読んでも、それが「オリジナル」から遠ざかるとは見なされない。その意味では、本は、最初から、コピーライトを設定しにくいメディアだった。ここで著作権というものを設定するためには、本そのものを越える領域が持ち出されなければならない。すなわち「著者=作者」である。

実際には、本の製作には、紙に文字を記した「著者」だけでなく、編集、印刷、製本にかかわった人間が多数存在するわけだが、そのなかで「著者」に特権をあたえ、絶対化することによって「著作権」が可能になる。これは、近代の小説という形式のなかで定着され、それがやがて、他のメディアヘ、さらには思考の形式にも影響をあたえて行った。本は、作者の知性の「複製」であり、また、知識は、思考する「主体」の独占的な産物だというわけだ。かくして本の著作権は、著者に帰属するということになるが、その根拠はきわめて便宜的である。そして、だからこそ、著作権を契約によって、著者以外の者に帰属させるということが「正当」とみなされたりもするのである。もともと取り決めにすぎないわけであるから、それを契約しだいでどう定義しなおしても、変わりがないのである。
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思考展開図の活用法

『使える失敗学』より 失敗を創造に変える人になる[失敗から創造へ] 思いつきノートをつけよう 思考展開図の作り方

サムスンが躍進した理由を探る

 サムスンは、フォワードエンジニアリングで、制約条件が異なれば、日本製品の機構要素とは異なる方向に進み得ることに気がついた。これがサムスン躍進の最大の理由である。

 今や世界のトップ企業の一つに数えられるようになった韓国企業のサムスン電子だが、同社が日本の後追いから決別して世界に躍り出るための戦略を立てたのは一九八七年頃のことであった。それが一九九七年の韓国の通貨危機後に功を奏し、一気に成長したと言われている。そのサムスンの基本戦略を思考展開図で分析してみよう。

 サムスンは日本に追いつくために、日本製品を分解、詳細に内容を検討した。そこで得た知識は、思考展開図61の右上の破線にあたる。サムスンは、そこからいったん右から左へ遡るという作業(リバースエンジニアリング)を行った。そして、折り返して再び右へと進む段階(フォワードエンジニアリング)で、制約条件が異なれば、日本製品の機構要素とは異なる方向に進み得ることに気がついた。「世界の市場ではそれぞれ違う機構要素が求められており、それを満たす制約条件も異なっているはずだ」ということだ。そして同社は地政学的な製品企画を行った。狙いは発展著しい新興国市場。「日本製品のようにすべての最先端機能を備えている必要はない。地域ごとに求められる機能の製品を売ればいい」と考え、人材教育を行い、現地で生活させ、それらの国々で求められている機能に絞った製品を企画し、それを圧倒的に廉価で売り出したのである。

土俵ずらしを活用しよう

 社会の要求の本質を読み、そこからずらしてみる。あるいはライバル社の製品から、何が本質的に新しいかを考えてみることが大切だ。

 サムスンはそれぞれの地域が求めているもので製品の基本構成をつくり(プラットフォーム化)、それぞれの地域で最も効率よく、また信頼され、求められているものをつくることで成長した。

 それは、言葉を換えれば、要求機能の下位の機能だけを変えて改良し、同一平面で別の設計解を出すという作業であり、「土俵ずらし」と呼ばれる手法である。図のように、思考展開図の一部を、縦や横にずらして、はみ出たところで勝負したのだ。

 (a)の「縦ずらし」は、対抗する製品の要求機能より下位に機能をずらし、そこに別の機能を設定する方法だ。一方、(b)の「横ずらし」は、対抗する製品の要求機能を一つの手段と捉えて、さらに上位の要求機能を設定することで、下位の別機能を追加する方法である。

 このように、他社をベンチマークすることで、社会の要求の本質を読み、そこからずらしてみる。あるいは相手が出したものを思考展開して何か本質的に新しいかを考えた上で自分たちの製品を見直すことが大切だ。そうすることで、潜在的ニーズを掘り起こすことができるのである。日本の多くの電機メーカーは、自分たちの技術が世界最高水準にあることに慢心し、そうした努力を怠り、サムスンの台頭を許したのである。

別平面ヘジャンプしよう

 例えば、「所有する」という平面から「利用する」という別平面にジャンプすることで、新しい商品開発のヒントが湧いてくる。

 新しいニーズ、あるいは潜在的なニーズを掘り起こすには、ときには視点を転換することも必要である。前項の「土俵ずらし」も、そのための一つの方法だが、別の平面にある思考展開図ヘジャンプするという方法もある。例えば、駐車場の業者がはじめたカーシェアリングシステムや、都会や観光地での自転車シェアリングシステム、学校や会社で自然発生的に行われているビニール傘のシェアリングなどは、従来、所有することが当たり前、あるいはステータスシンボルだったものを、サービスとして利用するという視点で見直しかものである。

 例えばカーシェアリングの場合、所有の制約条件の一つであった初期購入費やメンテナンス料、あるいは駐車場代といった費用は業者が負担するので、利用者が負担する必要がなくなる。また、モノの使用効率が上がることで、つくり過ぎ、不必要なもの、使わないのに置かれているものの占有空問といった、モノを所有することによって生じていたいくつかの制約がなくなり、社会的にも有効性が出てくることになる。こうした効果は、「所有する」という視点の延長線上には決して現れることのないものであり、「利用する」という別平面にジャンプすることではじめて理解できることである。次世代に向けた商品開発のヒントがここにあるのだ。
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産業資本主義からポスト産業資本主義ヘ

『会社は社会を変えられる』より 会社の存在意義とはなにか グーグルの逆説

グーグルのような会社が出てくる前の、資本主義のあり方とはどのようなものだったのでしょう。資本主義の歴史は古く、すでに六〇〇〇年前のメソポタミアの商人はラクダで砂漠を旅したり、船でティグリス・ユーフラテス川を渡ったりして、黒曜石や油やさまざまなモノを交易していました。あるところで安く買った商品を別のところで高く売れば、二つの市場の価格差が利潤として手元に残ります。このように、差異性から利益を生み出す商人資本主義は古代から存在していました。そして、この商人資本主義の原理は、資本主義の基本原理として、時代を超えた普遍性を持っているのです。

一八世紀のイギリスで始まった産業革命は、資本主義を「産業資本主義」に転換させました。蒸気機関や紡績機械の発明により、資本家は工場をつくり、多数の労働者を雇って大量生産を行うシステムを確立したのです。産業資本主義における利潤の源泉は、機械制工場の「高い生産性」と労働者の「安い賃金」とのあいだの差異でした。

「高い生産性」は工場を建てれば確保できます。たとえば、映画『男はつらいよ』に出てくる、「とらや」の裏にある印刷工場がそうです。タコ社長は印刷機械を買って柴又に町工場をつくりました。そこでは中学校や高校を卒業し、地方から集団就職で上京した若者が働いていました。田舎には人が余っていて、一人が辞めても、いくらでも代わりがいますから、安い賃金で働き手を雇うことができます。したがって、資本家は工場さえつくれば、ほかの工場と同じ機械を使っていても、簡単に利潤を得ることができました。じつは、中国やインドネシアなどの発展途上国はいまもその仕組みです。

けれども、経済が拡大するにつれ、だんだん人手不足になっていきます。ヨーロッパでは一九五〇年代あたりから、日本では六〇年代あたりから人材が枯渇してきました。地方から供給される労働力が希少になり、集団就職もなくなり、中高卒の若者たちが「金の卵」と呼ばれるようになったのもこのころです。都会の工場の社長さんたちが、地方の中学や高校に行って、頭を下げて、労働者を確保するようになります。そのうち、それでも人は来なくなりました。

人が足りなくなると、もちろん、賃金が上がります。そうすると、利潤は差異性から生まれるという資本主義の基本原理が作動しはじめます。たとえ生産性の高い機械制工場をもっていても、賃金費用が上がってしまえば、利幅は消えてしまいます。つまり、大量生産を可能にする生産設備と安い労働力の組み合わせで利潤を生み出せていた産業資本主義的な経営は行き詰まってしまうのです。そこで、かつての商人資本主義の時代と同様に、資本主義の基本原理を意識的に使う必要が出てきます。すなわち、差異性を自らつくり出すことです。それは、ほかより効率的な技術を導入したり、ほかとは異なった製品を開発したり、ほかが行かない市場を開拓したり、ほかが見逃していた仕入れ先を探しだしたりしなければならないことを意味します。そうして、収入を上げるか、費用を下げるかしなければ、利潤が生まれなくなったのです。

時代は、産業資本主義からポスト産業資本主義に大きく転換したのです。

ただ、こうした資禾主義の転換は経済の発展途上で起きるものですが、例外があります。アメリカです。広大な国土に対して人が極端に少ないがために、歴史上つねに人が足りなかったのです。西部の開拓が終わり、移民を入れても人件費は下がりませんでした。それゆえ、アメリカ経済は始めからポスト産業資本主義的な様相を示しており、世界に先駆けてイノベーションを進めざるをえなかったのです。

では、ポスト産業資本主義において、差異はどこで生み出せるのか。「ヒト」の頭です。単純な労働力としてのヒトではなく、ヒトが持っている知識やアイデアがものを言うようになります。それで差異性のあるものをつくれば利潤が生まれます。

かつて堀江貴文さんは「おカネで買えないものはない」と言いました。たしかにおカネを持っていれば、どんなモノでも買えます。機械も建物も土地も、すべてモノですから、おカネで買えます。事実、産業資本主義の利潤の源泉は、機械制工場でしたから、産業資本主義の時代は、おカネが支配した時代であったのです。

ところがここで困ったことが起きます。おカネで買えないモノはありませんが、モノでない存在が一つあります。それは、ヒトです。ドレイ社会でないかぎり、ヒトはおカネでは買えないのです。もちろん、札びらを積めば、多くのヒトは喜んで働いてくれるでしょう。だが、その場合でも、ヒトの頭の中にある知識をポンと目の前に取り出して、値付けしたり売買したりすることは不可能です。とりわけ、差異を生み出すような知的な仕事をするヒトは、おカネだけでは働きたくないと思っているヒトが多い。いや、おカネで買えない何かを与えてくれなければ、創造性を発揮してくれません。

ここにグーグルの逆説が生まれる必然性があります。おカネの追求を第一の目標にせず、おカネで買えない何かを従業員に提供する会社が、まさにそのことによって、もっとも優秀な人材を集め、もっともおカネを稼ぐ結果になるということです。
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