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共産社会とシェア社会

共産社会とシェア社会

 マルクスは共産主義の先には共和主義を位置づけた。そこでは、個人が所有しない世界であった。その前の共産主義の段階で瞑想してしまった

 全員が理解していない時に、下から湧き上がってない段階で、先鋭的な部隊が勝手に誘導してしまい、彼らは特権階級になっていった。

 共和制として底辺から始めていない。また、ローカルから始めていない。シェア社会は共有意識から始めないと悲劇をまねく。これは教訓です。

自動車の所有権

 自動車のカタチを見ていると、なぜ、それを所有しないといけないのか。なぜ、それで張り合わないといけないのか。無駄というのは、差別を生むから。差別を原動力とする世界は環境社会に適しない。有限が見えている世界では、それらは答にはならない。

政治は変えていくもの

 一部の連中が突っ張っているだけではダメです。やはり、変えていくことです。政治は本来、変えていくものです。

 中国を見ていると分かるように、私有財産というのは魅力的です。本来の共和主義ならば、社会のために使わないとダメなのに、そんなことはしない。

ロシアの私有財産

 レーニンの最後の方では私有財産を認めることで、農民は活性化したが、スターリンはそれを否定して、共有を目指した。トロッキーは国という見方もしていなかった。国を超えて考えていた。境界線を決めるときも、とりあえずで決めた。独仏とも共産主義になれば、境界線は関係ないと考えた。

 ロシアは、その当時、40%しかロシア語を使っていなかった。多民族であったが、風土の関係で食っていけるような状態であった。国民として、大きな権力を要求した。

 独仏に比べると、生産性は非常に悪かった。どうやって、シェアするのか。それで国というものに頼った。国は大きければ大きいほどいいというという感覚だった。そして、ウクライナから剥奪させた。ウクライナは飢えて、300万人が亡くなった。
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未唯空間中分類見直し 8.販売店

8.1 販売店要望
 8.1.1 お客様要望
  1.意識を変える
  2.取り込み
  3.事例を展開
  4.情報を集約
 8.1.2 お客様状況把握
  1.お客様状況カルテ
  2.思いを発信
  3.お客様ひとりに対応
  4.コミュニティと接続
 8.1.3 お客様とつながる
  1.お客様の意見
  2.インターネット活用
  3.コラボ環境
  4.クライシス対応
 8.1.4 簡単に使える
  1.各社ニーズを反映
  2.簡単なデータ操作
  3.フロー情報の取り込む
  4.モバイル対応

8.2 メーカー要望
 8.2.1 クルマ状況把握
  1.クルマを捉える
  2.クルマの位置づけ
  3.クルマとお客様の関係
  4.お客様と信頼関係
 8.2.2 つながる企画
  1.多様な関係者
  2.商品戦略
  3.情報サービス
  4.B-B-C体制
 8.2.3 販売店を活かす
  1.お客様ポータルを企画
  2.販売店の知恵
  3.メーカー情報を反映
  4.メーカーと情報共有
 8.2.4 地域とつながる
  1.市民と共に考える
  2.地域におけるクルマ
  3.市民コミュニティ
  4.行政と地域インフラ

8.3 地域要望
 8.3.1 声を聴く
  1.お客様接点
  2.声をまとめる
  3.メーカーを含めた情報共有
  4.活用状況を把握
 8.3.2 ナレッジ集約
  1.ナレッジ化
  2.ネット環境を共有
  3.メッセージ接続
  4.コンテンツ接続
 8.3.3 地域支援
  1.スタッフチーム
  2.スタッフを武装化
  3.シェア社会の試み
  4.環境社会に対応
 8.3.4 地域展開
  1.ファシリテーター
  2.インタープリター
  3.コンパクト化
  4.ソーシャルネットを共有

8.4 情報活用
 8.4.1 データ集約
  1.スタッフに集約
  2.意思決定
  3.お客様へ発信
  4.経営者の意識変革
 8.4.2 フロー情報
  1.ポータル情報
  2.お客様間情報
  3.事例展開
  4.モバイル環境
 8.4.3 ストック情報
  1.コミュニティの知識
  2.共有意識
  3.コンテンツの共有
  4.ループを支援
 8.4.4 データベース
  1.お客様接点業務
  2.サーバー集約
  3.共有インフラ
  4.次世代構成

8.5 情報共有
 8.5.1 共有基盤
  1.開発要件
  2.シナリオ
  3.基盤の構造
  4.ファシリテーター
 8.5.2 クラウド
  1.販売店毎の機能
  2.お客様ポータル
  3.スタッフ・データ活用
  4.メーカーと直結
 8.5.3 ポータル
  1.ポータル管理
  2.ポータル画面
  3.ナレッジと検索
  4.データ取込みと表示
 8.5.4 コミュニケーション
  1.コラボレーション
  2.メッセージ
  3.ライブラリ
  4.アピール・アンケート

8.6 コミュニティ
 8.6.1 分化
  1.ナレッジワーカー
  2.スタッフ環境
  3.変化に対応
  4.組織の分化
 8.6.2 配置
  1.基幹系は更新中心
  2.情報系は確実な維持
  3.メッセージ系で外と情報共有
  4.コミュニティ系で内と情報共有
 8.6.3 知識
  1.個人認証
  2.状況把握
  3.メーカー情報
  4.お客様とやりとり
 8.6.4 意識
  1.売るから使う
  2.サービスの高度化
  3.安心して発信
  4.ナレッジ化

8.7 ソーシャル
 8.7.1 コミュニティ
  1.要件の目的化
  2.存在の力で位相化
  3.循環の意識
  4.メーカーのイノベーション
 8.7.2 ソーシャルネット
  1.ソーシャルで信頼関係
  2.お客様ポータル
  3.地域へ展開
  4.ソーシャルネット
 8.7.3 ソーシャルツール
  1.バーチャルコミュニティ
  2.メッセージ主体
  3.モバイルでコラボ
  4.ソーシャル社会
 8.7.4 マーケティング
  1.仕組みが変わる
  2.コミュニケーションが変わる
  3.情報共有のマーケティング
  4.クルマのマーケティング

8.8 クルマ社会
 8.8.1 問題意識
  1.知識と意識
  2.市民環境
  3.共有意識
  4.有機的なつながり
 8.8.2 地域インフラ
  1.地域で決定
  2.アピール・アンケート
  3.地域の交通インフラ
  4.地域エネルギー
 8.8.3 環境社会
  1.クライシス対応
  2.生活者のコンパクト化
  3.地域コミュニティの自立
  4.企業は統合に動く
 8.8.4 クルマ社会
  1.人を変え
  2.コミュニティを変え
  3.企業を変え
  4.国を変える


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政治学人名録

『政治学大図鑑』より

政治学人名録

マクシミリアン・ロベスピエール 1758年~1794年
 ロベスピエールはフランス革命の指導者であり、彼の支持者には革命の原理を貫く堕落とは無縁の人物と目されていたが、一般的にはむしろ冷酷な独裁者として記憶されている。パリで法律を学び、そこではじめて革命に関するシャン=ジャックリレソーの著書と出会った。その後、アラスで弁護士として働くうちに政治にかかわるようになり、議会議員となる。ロベスピエールは平等な権利を主張し、共和政樹立を目指した。ルイ16世が処刑されたのち、ロベスピエールは公安委員会に入り指導的立場にっく。そこで恐怖政治を行い、脅威となる反革命的な動きを弾圧した。 しかし最終的には彼自身が逮捕され処刑される。

アドルフ・ヒトラー 1889年~1945年
 アドルフ・ヒトラーはオーストリアで生まれるが、青年期にドイツに移住し、すぐに過激なドイツ国家主義者となった。第一次世界大戦で従軍したのち、当時結成されたばかりのドイツ労働党(のちのナチ党)に入り、1921年にはその指導者となる。 1923年にミュンヘンのビアホールでクーデターを起こすが(ミュンヘン一揆)、失敗して投獄される。刑務所においてヒトラーは自叙伝『我が闘争』を著した。翌年に解放されると、ドイツ国家主義・人種的優越性・反ユダヤ主義・反共産主義といった独自の思想を掲げて支持者を集め、1933年に首相に選ばれる。彼は即座に独裁的統治体制を確立し、ワイマール共和国を廃して第三帝国を打ち立てた。そして、ドイツ国民のために領土を獲得すべく、ドイツの再軍備を進めた。ヨーロッパ全土に国土を広げようとする過程で、1939年にポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が勃発し、1945年にドイツは敗北する。ペルリンの戦いが起こり、連合軍が迫るなか、ヒトラーは地下壕で自決した。

フランクリン・D・ルーズヴェルト 1882年~1945年
 アメリカ合衆国第32代大統領であったルーズヴェルトは、大恐慌が最悪の局面を迎えた1932年に大統領に選ばれた。就任後すぐにニューディール政策を打ち出し、経済成長の促進・失業率の削減・金融機関の規制を推し進めた。同時に、市民の権利を拡大するための社会改革に着手した。ルーズヴェルトが行った社会制度の拡張や金融市場への介入は、アメリカの20世紀における自由主義政治の規範となった。これらの政策により経済は上向き、国民の意識も高揚した。そして第二次世界大戦が起こるが、アメリカは不干渉主義を貫き、それによって世界情勢において主導権を握ることに成功する。この手腕によってルーズヴェルトの人気がさらに高まることとなった。

ホー・チ・ミン 1890年~1969年
 ホー・チ・ミンはフランス領インドシナ(現在のヴェトナム)で生まれ、幼名をグエン・シン・クンといった。フエにおいてフランス様式のリセ(後期中等教育機関)で学び、しばらくは教員として働いた。その後、船員の仕事を得てアメリカに渡り、また、ロンドンやパリの厨房などでも働いた。フランスにいるあいだに共産主義について学び、ヴェトナムをフランスの支配から取り返し国民政府の統治下に置くべきだと考えるようになり、ヴェトナム返還を求める運動をはじめる。ソヴィエト連邦や中国に数年間滞在し、香港ではイギリス政府によって投獄されたこともある。 1941年にヴェトナムに戻り、ホー・チ・ミンを名乗り独立運動の指導者となった。第二次世界大戦では日本による侵略を防ぎ、1945年にヴェトナム民主共和国(別称「北ヴェトナム」)を建国して大統領兼首相に就任する。そして1955年に病で引退するまで、ヴェトナム南北統一のために戦い続けた。ヴェトナム戦争の終わりを待たずに、ホー・チ・ミンは1969年に亡くなったが、その後も彼は、ヴェトナム共和国(別称「南ヴェトナム」)やアメリカ主導の軍隊と戦うヴェトナム人民軍や解放戦線の象徴であった。

フィデル・カストロ 1926年~
 反帝国主義政治の象徴とも言えるカストロが、はじめてキューバの政治にかかわるようになったのはハバナの大学で法律を学んでいた時代だった。大学を出てから、コロンビアとドミニカ共和国の右派政権に対する抵抗運動に加わる。 1959年には、弟のラウル・カストロと友人のチエ・ゲバラとともに、キューバにおいてアメリカの支援を受けて独裁政治を行っていたフルヘンシオ・バティスタを倒す戦いの先頭に立つ。新たに独立したキューバ共礼国の首相となったカストロは、マルクス・レーニン主義の一党独裁体制を敷いた。アメリカはカストロを倒そうとし暗殺まで試みたが、彼は1976年にキューバの大統領に就任した。カストロは、ソヴィエト連邦とあまりに密接な関係になることを避け、国際主義の立場をとって非同盟運動に参加した。非同盟運動とは、冷戦のあいだ、東西いずれの陣営にも属さず、反帝国主義の立場を守ろうとする国々の国際組織である。ソヴィエト連邦崩壊後、カストロはラテンアメリカ諸国と同盟を結び、また、外国からの投資を受け入れるための法案を可決させた。 2008年に体調の悪化により引退し、弟ラウルに大統領職を譲った。
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政治学人名録

『政治学大図鑑』より

アレクサンドロス大王 紀元前356年ころ~前323年
 アレクサンドロスは、マケドニア王ピリッポス2世の息子として、古代ギリシャがもっとも繁栄していた時代に生まれた。アリストテレスが家庭教師として招かれ、アレクサンドロスは若いころにその指導を受けたと言われている。父親の死後、王位を継承し、領土拡大に着手した。アレクサンドロスは小アジアの征服に成功し、さらにダレイオス3世が治めていたペルシャ全土を支配下に収める。そして最終的にはインド北部まで領土を拡大した。進軍の過程で、アフリカやアジアにギリシャの文化や制度を導入し、古代ギリシャの都市国家に倣ったヘレニズム都市を数多く建設した。

チンギス・ハーン 1162年~1227年
 テムジンはモンゴル北部の有力な一族に生まれ、のちにモンゴル帝国を築き上げた際にチンギス・ハーン(「チンギス皇帝」という意味)を名乗るようになる。チンギス・ハーンがモンゴルを統一する以前は、中央アジアの人々はいくつかの異なる部族に分かれており、その多くが遊牧民であった。チンギス・ハーンはそれらの部族を一つの国家にまとめ上げ、領土を中国へと拡大すべく遠征を開始した。皇帝となったのちは、モンゴル帝国を汗国と呼ばれる小国に分け、そのそれぞれを自らの一族に治めさせた。そしてさらに中央ヨーロッパヘと支配を広げていった。チンギス・ハーンの征服は残忍なものであったと考えられているが、彼の築いた帝国では各民族の文化の多様性が尊重されていたという一面もある。

アクバル大帝 1542年~1605年
 インドのムガル帝国第3代君主であったアクバルは、ムガル帝国の拡大に努め、インドの中部・北部の大部分を支配下に収めた。そして、さまざまな民族が存在する帝国に宗教的に寛容な文化を導入し、また、政府の再編成を行った。アクバルは、帝国を自治区に分割してそれぞれに統治者を置くというかたちをとらず、中央政府の支配下にある軍の長官たちにそれぞれの地域を管理させるという方法をとった。その中央政府は、財政・司法・軍事といった分野を扱う部門に分けられていた。このようにしてアクバルは、相違点を持つ諸地域を統一し、平和で繁栄した帝国にまとめ上げた。

徳川家康 1543年~1616年
 日本の軍事指導者であり政治家であった徳川家康は、三河国の岡崎城主の嫡男として生まれた。家康が生まれたのは長期にわたる内戦の時代であった。家康は父親のあとを継ぎ、隣国の豊臣秀吉との同盟関係も引き継いだ。しかし秀吉の死後もこの同盟関係を守るという約束を破り、家康は豊臣家を滅ぼし、江戸(現在の東京)に幕府を開いた。1603年に徳川家康は、すでに名前だけの支配者となっていた後陽成天皇によって将軍の地位を与えられ、事実上日本全土の支配者となった。そして、幕府を徳川幕府とした。それぞれの地域の大名に土地を分配し、大名の地方統治に厳格な規制を課すことで、家康は権力基盤を維持し、安定した国家をっくり上げた。

ジョージ・ワシントン 1732年~1799年
 ワシントンはアメリカ独立戦争時に大陸軍の総司令官を務めた。また、アメリカ建国の父の一人であり、合衆国初代大統領でもある。政党には属しておらず、政党政治は不和につながるものであるとして警告を発していた。2期にわたる大統領任期中に、連邦政府によって統治される共和制国家としてアメリカをまとめるための諸政策を導入した。また、国民に愛国意識を持たせ、国家の繁栄と貿易の促進のために実用的な措置を施した。彼は、国家の負債を解消するために平等な税制を定め、外交においてはヨーロッパの戦争に巻き込まれないようにするため中立の立場を貫いた。就任演説といった行事や大統領職を2期までとする慣例など、アメリカ政府の決まりごとの多くはワシントンによって確立された。

ナポレオン・ボナパルト 1769年~1821年
 ナポレオンは、コルシカ島に渡ったイタリア貴族の家系の出身であったが、フランスの陸軍士官学校で学び、フランス軍に所属した。フランス軍入隊後払変わらずコルシカ民族主義者であった。ナポレオンは共和政を支持しており、フランス革命が終わるころにフランス共和軍に参加する。クーデター後には統領政府の第一統領となり、ナポレオン法典を制定した。これにより実力主義の政府が確立し、世襲による特権が退けられ、信教の自由が保障された。特にユダヤ人とプロテスタントの人々の信教の自由が認められたことは画期的であった。彼はまた、ローマ教皇ピウス7世と政教条約を結び、いくつかのカトリック教会の地位を回復させた。 1804年にナポレオンは即位して皇帝となり、自らの破滅へとつながる一連の戦争に着手する。 1813年に退位してエルバ島に追放されたが、すぐに復位する。 しかし、1815年のワーテルローの戦いでイギリス軍に敗れ、亡くなるまでセントヘレナ島に幽閉されることとなる。
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政治学 論旨

『政治学大図鑑』より

ムハンマド(570年~632年)

 イスラムは平和的な宗教であり、すべてのムスリムは平和な暮らしを望む。
 しかし、ムスリムといえども、侵略を受けた際は自らを守らなくてはならない。
 そして彼らの平和と信仰を脅かす異教徒に、攻撃を加えなくてはならない。
 戦いは忌まわしいものだが、義務でもある。

イマヌエル・カント(1724年~1804年)

 幸福を得る方法や幸福を感じる方法は、人によってさまざまである。
 したがって、幸福という尺度を用いて万人に平等に適用されるような確固たる原則を創り出すことはできない。
 法はすべての人に適用され、全体の意志を反映するものでなくてはならない。
 よって、一般的な法の原則が幸福に基づいていることなどあり得ない。

ゲオルク・ヘーゲル(1771年~1831年)

 二つの精神が出会うとき、それらは承認されることを求めて争う。
 生命よりも自由を重んじる精神は主人となり、自由よりも生命を重んじる精神は奴隷となる。
 主人の意識は、奴隷がいることでその存在を確立する。
 奴隷は、実際に触れることのできる現実世界において、主人のために労働することで、自分の意識を発見する。
 奴隷は現実世界に存在しているものとして自己の存在を感じる。

カール・マルクス(1818年~1883年)

 資本主義と私有財産によって、労働力は商品化される。
 このことによって、労働者は、自分がつくった製品・自分の仕事・人間としてのアイデンティティー・仲間の人間から疎外される。
 共産主義は私有財産を廃止し、疎外を終わらせる。
 共産主義は歴史上の難問の答えである。

フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)

 力への意志は単なる支配欲ではない。
 それは、ただ生き延びるよりも高尚な目標に向かって努力することである。
 たとえ命が危険にさらされるとしても、このような努力のなかでこそ、良い人生を送ることができるのである。

ウラジーミル・レーニン(1870年~1924年)

 反乱を成功させるためには、大衆の行動に頼らざるを得ない。
 大衆に行動を起こさせるには、前衛党が必要となる。
 大衆が前衛党とともに活動するためには、前衛党と大衆の目的と利益が合致していなくてはならない。
 大衆のあるところに政治が起こる

レフ・トロッキー(1879年~1940年)

 目的が手段を正当化するとしたら、何が目的を正当化するのか。
 目的は、それ自体がほかの目的のための手段である。
 人間の力が自然を上回るようにし、人間がほかの人間に対して持つ権力を廃止するようなものならば、その目的は正当である。
 最終的にこの目的に貢献することとなる行為のみが「道徳的」である。

毛沢東(1893年~1976年)

 中国は産業社会ではなく農業社会である。
 したがって、中国では農民が労働者階級となる。
 農民は、武装した資本主義者の搾取に抵抗するための力を持たない。
 社会から銃を排除するには、銃を手にして戦う必要がある。
 政治的権力は、銃身から生まれ育つものである。

フリードリヒ・ハイエク(1888年~1992年)

 自由市場は個人の需要に応える。
 したがって、市場においては自由な取引が認められるべきである。
 そして、社会において自然に秩序が生まれることを促すために、政府の力は制限されるべきである。
 中央政府による計画経済では、個々人の需要の変化に応えることができない。
 したがって、中央による計画経済には強制が伴い、すべての人々の自由が抑圧される。
 そして、制限を受けない全体主義的な政府が生まれる制限を受けない政府は重大な害悪である。

ノーム・チョムスキ一(112S年~)

 メディアや銀行といった社会の有力な組織は、少数派の富裕層によって支配されている。
 この少数派の富裕層は、自らの利益につながるような方法でその組織を運営する。
 その構造に対して改革を試みた場合、富裕層からの投資が断たれ、経済は破綻する。
 経済を健全な状態に保つためには、貧困層も含めたすべての人々が、富裕層の利益のために運営されている制度を支えなくてはならない。
 裕福な人々の幸福をあらゆる人々が保障しなくてはならない。
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