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大クルディスタン構想の栄光と悲惨

『国家と犯罪』より

クルド難民保護区の現実のまえにムスタファ・バルザーニやイーサン・ヌリが夢想した大クルディスタン構想はもはや窒息死してしまったと言ってもいいだろう。リアル・ポリテクスがそれを掘殺したのだ。いまや、その夢想は遠いむかしのエピソードとしての記憶でしかない。

クルド人のこの今日的な状況はオスマン・トルコ帝国の解体によって産み落とされたものだが、第二次大戦後それはさらに深化していった。冷戦時代、中東の地下資源をめぐってさまざまな思惑が交錯したが、どのような国際関係のなかにおいてもクルド人だけはまっとうなかたちで視野に入れられることなく、利用主義的な価値としてのみ扱われてきたのだ。分断されたクルディスタンと血で血を洗うクルド人のあいだの党派闘争は国際社会のそういう意思の具現化なのである。社会主義陣営ももちろんクルドの民族自決権については一言も触れようとはしなかった。

左翼運動宣伝容疑で何度も逮捕された社会学者イスマイル・ペシクチはこう叫ぶ。「分断され分割され、あらゆる種類の民族的かつ民主的諸権利を剥奪され、併合された、そして天然資源を乱暴に略奪され、抹殺されんとし、化学兵器に向きあって生存闘争をつづけるクルド民族がどのようにして日本・ドイツ・アラブ諸国・トルコなどの労働者階級の闘争に合流できるというのか? 子どもも妻も、男も女も、老いも若きも有毒ガスの標的にされ、集団難民として何とか生き延びようとしている、そして故郷から国家による暴力によって追い立てられ、放り出されたクルド民族がいかにしてソヴィエト連邦・中華人民共和国・アルバニア・ヴェトナムに合流できるというのか? しかし、これらのどの国、どの階級にしろ、多くの勢力に囲まれ孤立のなかで進められているクルド民族の民族解放闘争に合流することはもちろん大いに可能だ」だが、ベシクチのこの結論はいまやただの夢ものがたりと言っていいだろう。先進諸国はとうのむかしに石炭から石油へのエネルギー転換を行なっている。彼のいう労働者階級もそういう経済基盤のうえに存在しているのだ。廉価なエネルギーの安定供給のためには現状維持がもっとも望ましいと考えている。その視野のなかではクルド人は存在すらしていない。旧社会主義諸国でいま蔓延しているのは拝金思想だけだ。ハラブジャの虐殺を想いださなければならない。マスタード糜爛ガスを散布したのはサダム・フセインが購入したソヴィエト製のミグ戦闘機だった。経済のためならどんなことでもする。社会主義時代ですらそうだったのだから、それが崩れた今日、旧社会主義陣営にとって民族自決テーゼが念頭にあるはずもないのだ。労働者階級とかつての社仝主義国家がクルドの民族解放闘争に合流する--もはや、この願望は他愛もない白昼夢に過ぎないと言っていいだろう。

かくて、クルド人はむかしもいまも孤立無援である。彼らは現代史の矛盾を一方に背負わされたまま忘れ去られているのだ。進行する歴史の非情さはこう宣告しているように思えてならない。

クルド人はクルド人であるということ自体で犯罪的である。

イラクにおいては汎アラブ主義がアラブ以外の権利を主張するクルド人の行為を有罪と決めつける。イランではイスラムの教義に照らし合わせてクルドの民族的覚醒は犯罪的だとされるのだ。トルコにおいては近代化の前提とした単一民族論がクルド人なるものは存在せず山岳トルコ人がいるだけだと主張し、クルド人がクルドであると名乗るだけで有罪とされるのである。

中東情勢はこれからもめまぐるしく揺れ動くにちがいない。イスラム原理主義と民族主義。石油をめぐるパワー・ポリテクス。ここは相変わらすの火薬庫なのだ。それに合わせて、近々、クルディスタン全域を巻き込んでの大爆発=現在の国境を越えたクルド人の一斉蜂起は起こりうるのか?残念ながら否と判断せざるをえない。フランツ・ファノンの修辞法を借りて言えば、それはあまりにも早過ぎるか、あまりにも遅過ぎるからだ。この現代史の冷酷さにたいしてはだれもが立ち疎みを覚えるだろう。わたしはアナトリア地方やマハバード周辺で出逢ったクルド人たちの表情を憶いだす。そして、いまのところは呆然としたままクルド民謡の一節を紹介するのみである。

 友だちはだれもいない、

 こころを許せるのは山だけだ……大地と風が囁きかける、

 おまえはいったい何か欲しいのだ、と
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