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社会化、逸脱

『教育格差と社会学』より 社会化と逸脱

社会化の概念

 まずは「社会化」の概念からみていくことにしよう。

 『新教育社会学辞典』では「個人がその所属する社会や集団のメンバーになっていく過程、例えば子どもが大人になり、社会的存在になっていく過程を指す」とある。『新社会学辞典』では、「個人が他者との相互作用のなかで、彼が生活する社会、あるいは将来生活しようとする社会に、適切に参加することが可能になるような価値や知識や技術や行動などを習得する過程」である。

 『犯罪・非行事典』では、「社会化とは、生まれたばかりの生物学的存在である人間を社会的存在に至らしめる、あらゆる過程と作用のことである。言い換えれば、社会化とは、個人が所属するさまざまな集団での人間関係を通して、個人の成長の過程で、社会の成人として生きていくための知識、技術、価値、規範、役割などを内面化していく過程であり、またその作用である」となっている。

社会化を考える

 次に「社会化」とはどのようなことなのか、

 社会化は、人間だけでなく哺乳類や鳥類にもあり、適切に社会化されなかった哺乳類や鳥類は野生の生活ができなくなる。逆に、動物によって育てられた人間は、動物によって社会化されてしまうので、動物化してしまい、人間になれない。生物学的にはヒトではあるが社会的な存在の人とはいえなくなる。オオカミ少女のカマラとアマラがその例である。彼女たちは、生肉を好み、食べる前に必ず匂いを嗅ぎ、二足歩行ができず、四足で歩き・走り、脚は完全に伸ばすことも完全に曲げることもできず、人では見えないような暗闇の中でも物を見ることができ、遠いところの肉の匂いを嗅ぎつけたという。

 社会化は時代を超えて、あらゆる社会に存在する。「社会」があれば「社会化」がある、ということだ。社会化は時代と社会によって異なる。時代が変われば(もしくは社会が変われば)、社会化の内容だけでなく、社会化の様式も担い手(エージェント)も変わる。ということは、時代変動の激しい社会では、社会化の変容も激しい、ということである。

 また、社会化は幼少期・青年期のみならず生涯にわたるものである。生まれてから死ぬまで社会化し続けるのが人間である。しかも、上記のように時代変動の激しい社会では社会化の変容も激しいので、幼少期・青年期に社会化によって得た意識・能力がその後の時代では通用しなくなることが多分に起こる。

 社会化は社会にとっては、社会成員の再生産であり、文化の継続・伝承という機能・意味をもつ。また、個人にとっては文化の内面化であり、役割取得過程であり、人格の形成であり、成長発達課題の達成過程であり、アイデンティティの確立過程である。したがって、社会化機能が不全に陥るということは、社会にとっては、社会成員再生産機能不全・文化継承不全に陥るということであり、社会崩壊への路をたどることである。また、個人にとっては、役割取得不全・人格形成不全・成長発達課題未達成・アイデンティティ混乱ということであり、人格崩壊への路をたどるということである。

 人は、理性のみならず感情までも社会化される。好き・嫌い、快・不快までもが社会化の産物である。毎日風呂に入り・毎日下着を取り替えないといられない、というのは、個人的な心の問題であると同時に時代・社会によって社会化された結果でもある。

 当該社会にあっても、階層・性・年齢・宗教・地域・集団などによって、社会化は異なる。ここから、同一の時代社会にあっても、多様な社会化が出現するといえる。低階層家族の社会化は富裕層の家族の社会化と同じではない。こうして社会化は家族のもつ社会資本・文化資本とつながる。

 「教育」と「しつけ」は社会化の一形態であり、意図的な社会化、方法的社会化である。社会化には「意図しない社会化」が含まれる。「子どもは放っておいても育つ」「子どもは親の背中をみて育つ」「地域の中で子どもは育つ」「きょうだいやが牛大将集団の中で子どもは育つ」などといわれているが、これらは教育ではなく社会化である。「自然のもつ教育力」、これも教育ではなく社会化である。テレビ・ネットの影響力も多分に教育ではなく社会化である。

逸脱の概念

 「社会化」同様に「逸脱」も辞書を引いてみる。

 『新教育社会学辞典』では、「それぞれの社会や集団で分有されている社会規範に反する現象のことをいう。それが社会規範に反する行動ならば逸脱行動、人ならば逸脱者、集団ならば逸脱集団、文化ならば逸脱文化である。(略)なんらかの社会規範の存在が逸脱に先行し、逸脱はその性格によって左右される」とある。

 『犯罪・非行事典』では、「逸脱行動は、広域社会や社会諸集団で文化的に承認されている標準からはずれている行動を意味する。逸脱行動の識別基準は平均的類型に照らして例外的なものであり、かつ広域社会や社会諸集団で正当であり合理的であるとして成員の大多数に承認されている期待に反するものであるかどうか、というところにおかれている。このように逸脱行動は極めて相対的な概念であり、社会、集団、時代などが異なれば当然に異なって定められる」とある。
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