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振り子電車で考えたこと

朝の特急で長野から名古屋に戻りました。長野には5回ぐらい行っているのですが、その都度、振り子電車には参っています。何しろ、変な具合に揺れる。だから、パソコンもできないし、本も読めない2時間40分を過ごさないといけない。

この最近はめまいが気になって、下を見ることも怖い状態です。いっそのこと、東京経由で長野新幹線にしたいぐらいです。

だから、半分寝ながら、心の中の不安定さというか、浅さみたいなものを考えていました。何が一番引っかかっているかと考えていたら、環境学習施設(eco-Tという名前がつけられた)のボランティア教育の内容を見てから、自分の中の市民参画の方向性を失っていることに気付きました。

講座では、NPO代表と自然系環境インタープリターの夫婦、生活系のファシリテーターと大学教授が行うことになっていました。市役所としては、カタチを整えたかっただけみたいです。私にとっても、ここ2,3年を振り返ると空しさです。この間の愛称募集のセレモニーで感じた「心の狭さ」にも通じるものです。

それは会社での次期システムの「説明会」でも感じたことです。「思い」という言葉が通じない世界にまた、なりつつある。それで済まそうとしている。済ますことを「しごと」にする人に囲まれている。そんな感じです。

では、どうするか? 私の答えは一つです。「未唯への手紙」を思考しながら決めたことは、どんなことがあろうとも、「偶然」と「未来」のキーワードで進めるということです。何しろ、色々な偶然に跳びこむだけです。販売店を回るにしても、偶々、そういうことになったところへ説明します。なぜ、そこかとか、全国を回るつもりかとかは考えません。そこが私を呼んでいるから、伝道師としていくだけです。それで「未来」を切り開きます。

そんなことを、振り子電車で揺れながら考えていました。だけど、明日の『英文多読』まで、申し込んでしまったけど、何を私はしたいのでしょうか? まあ、明日になれば分かるでしょう。
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