みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

誰に目を留めるのか

2021年03月25日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 2章21−41節

 当地では、イースターでの人の出を抑えるためにいわゆる「ハードロックダウン」を行うと発表し、従来の休日に当たる受難日(4月2日)、イースターの二日間(4月4―5日)に4月1日と3日を加えて、五連休にすると発表しましたが、翌日連邦政府のメルケル首相は休日を二日加えることを撤回すると発表し、謝罪しました。各方面からの強い反発があっての撤回のようです。改めて政治的リーダーのために祈ることの必要をおぼえています。

 2章前半は、ユダの孫ヘツロンの系図のうち、ダビデに通じる人の名前が記されていましたが、中盤は、それ以外の人の名前を記します。きのうは歴代誌の焦点はダビデにあると書きましたが、それならば、他はいわゆる「傍系」として簡略化、あるいは省略してもよいのでは…と考えるのですが、そうはしません。

 ずっと人の名前をたどっていき、41節にエリシャマという人名にたどり着きます。私が普段読んでいる「新改訳2017」の欄外の注には、「Ⅱ列王25:25」とあります。エリシャマという名前は聖書に多いので別人である可能性もあります。しかし、注記の列王記第二 25章25節を開いてみると、そこにあるエリシャマは王族の一人であり、バビロンがエルサレムを治めるために置いたゲダルヤを殺害したイシュマエルの祖父に当たります。そうだとしたら、この系図を聞いていた人々は大きな関心を払ったことでしょう。

 ここに登場する人々の名前は、大多数が聖書の他の箇所には出てきません。印象に残らないのは仕方がないと思います。しかし、神はこれら一人ひとりの名前を記しておられるのです。私たちが誰に目を留めるのか、神はだれに目を留めるのか、視野の違いをおぼえます。


立派だからではなく

2021年03月24日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 2章1−20節

 近くのビルの前には水仙が群生しています。ほぼ満開。花弁が上を向いていないので、何となく謙虚さをおぼえさせる花だと思いました。

 きょうも歴代誌には人の名前が並びます。気合いを入れて読みましょう。私は節を追って登場する人々を書き(タイプし)ました。歴代誌が系図を書くのに多くを費やすのには理由があります。「みことばの光」の「歴代誌第一を読む前に」は、この書が著された背景を書いています。

 この書には、バビロン捕囚から帰還して、これから国を建て直そうとしていたイスラエルの民に、民族のルーツを確認させ、何を大切にして再建するかを心に留めさせるという意図がありました。ですから、私たちには退屈に思われるような人名の羅列も、この書をはじめに聞かせられた人々にとっては大きな意味のあるものでした。

 そして系図は、ヤコブからユダ、ユダからヘツロン、ヘツロンからエッサイ、エッサイからダビデへと焦点が絞られていきます。つまり、この系図は、たとえばヤコブの12人の男子からでたイスラエル民族を同じ分量で紹介しているのではないということが分かります。

 国の歴史、あるいは企業の歴史などを編纂し、出版するとします。そのようなとき、その国の悪しきこと、すなわち国が犯した悪事についてはできるだけ小さく表現にも「配慮」して記述します。企業の「暗部」というような出来事は「不幸なこと」として片づけたり、あるいは全く省いたりするなどということも行われるでしょう。

 しかし、聖書はそのようなことをしません。ダビデへと焦点は絞られていくのですが、そこに至る父祖たちの悪しき行いについて改ざんするようなことはありません。ユダが立派だったからその子孫が王になったというような描き方はしないのです。

 ここに、聖書の信頼性があるとも考えることができます。神の偉大さを記すのです。


神はおぼえる

2021年03月23日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 1章29―54節

 月曜日、「みことばの光」を執筆している方々の講習会がありました。オンライン時代ならではの集まり。良い時間を共有できました。

 1章後半は、アブラハムの子どもたちの名前が記されます。はじめはイシュマエル、そして妻サラの亡き後妻となったケトラの子どもたちの名が記されています。マタイの福音書1章で「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」で始まる系図には、「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み…」とあり、傍系といえるイシュマエルやケトラの子どもたち、またイサクの子エサウの名はありません。

 しかし、歴代誌はそのようなことはしません。イシュマエルの子どもたち、ケトラの子どもたち、そしてエサウの子どもたち、さらには、エサウの子孫であるエドムにいたセイルの子どもたちの名前も記されています。そして、最も多くを占めるのはエサウの子孫であるエドムのこと。

 カナンに定住したイスラエルは、多くの周辺諸国と摩擦や争いを繰り返してきました。イサクの子エサウの子孫エドムともそうでした。イスラエルかエドムのどちらを好むかという問いかけはどうかとも思うのですが、聖書を読んでいる人の多くは、イスラエルに肩入れしたくなるかもしれません。

 けれどもここで神は、イシュマエルの子どもたちやエサウの子どもたちの名をここに記させています。それは、神が彼らを覚えておられるということです。私の関心は誰に、どこに向けられているのだろうかと、考えます。


ちっぽけな存在? いいえ…

2021年03月22日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 1章1−28節

 きのうはほぼ2か月ぶりにお借りしている礼拝堂で礼拝しました。変異ウィルスに感染している人が増えている中、月曜日に今後のことについての協議がなされ、その結果を受けて次の日曜日の礼拝をどのようにするのかを判断することになっています。

 1月から民数記、アモス書と読んできて「旧約聖書脱出!」と思ったらなんと、きょうから読むのは歴代誌です。しかも歴代誌のはじめの部分は人の名前がずらり。9章まで人名リストが続きます。きょうの「みことばの光」の冒頭には「人名が羅列されているこの箇所を開いて、ため息をつく人も多いだろう」とありました。

 きょうの箇所にあるのはアダムに始まりアブラハムに至ります。創世記1章から12章ごろまでに登場する人物、出来事と関連があります。声を出して読むとよいかもしれません。そして、知っている名前が出てきたら、その人について聖書の記述と重ね合わせてみましょう。アダムからエノクを経てノア、そしてノアの3人の息子、セム、ハム、ヤフェテの子孫、セムの子孫の中からアブラハム、イサクそしてイシュマエルの名前へと続きます。

 聖書は神のことばです。聖書にこれらの人々の名が書かれているというのは、神が彼ら一人びとりを覚えておられる、顧みておられるということです。「私など…」と自分がちっぽけな存在に思えてとても不安になるようなことがあります。いなくてもいいのではないか…と。

 誰もが人のいのちは尊いものだと言いますし、反論する人はほとんどいません。それではなぜ尊いのか、それは神が一人ひとりを造り、しかと覚えておられるからだというのを、一見自分とは関係がないように思える人名リストから知るのです。


何を見ているのか

2021年03月20日 | アモス書

アモス書 8章

 3月も半ばをすぎたのですが、当地の気温は低く、金曜日も一時は雪らしきものが降りました。スイスに住む主にある友からの写真は雪景色でした。しかし、森を歩くと、死んだようになっている景色の中で、近づけてみるとうっすらと黄緑色になりかかった灰色の新芽が出ています。春の到来を思わせる色です。

 人は、見て聴いて、匂いをかいで、手で触れて、そして味わって季節の変化を感じます。主がアモスに見せられた幻も、それによってアモスが納得するだけのものではなくて、預言者である彼が人々にどうしても伝えなければならないことだということを表しています。

 ここでは、「終り」と「夏」を表すことばとが掛け詞になっているのが、聖書の欄外に注記されています。アモスの預言には、このように表現上の知恵がちりばめられています。ここから、アモスは教養のある農夫だったという人もいます。神は預言者それぞれに応じて、ご自分のことばを届けさせ、それを聞く人々の心に刻みつけようとしておられるのだと分かります。

 それにしても、「主のことばを聞くことの飢饉(ききん)」とは恐ろしいことばです。読もうとするなら、どこででもいつでも聞くことのできる現代。主のことばはあふれているのです。けれども、それを聞くことにおいて飢饉なのだということばについては、考えさせられます。神のためにあれこれとなすことには熱心でありながら、神を知ること、神のことばを聴くことをしない、これこそ最も憂えることではないでしょうか。

*写真はスイス在住の松林幸二郎氏によるもの


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