アモス書 5章1−15節
きのうの本欄、なぜか予約投稿になっているのに気づかずに、公開が遅くなりました。お詫びします。天候の話が多いのですが、きょうも朝は曇り、次に雨、その後晴れ、それから雨と変化に富んでいます。スイスに住む友人からは、今週はずっと雪の予報とのこと。東京では桜が開花したと報じられていますが、当地はまだまだ春は先ということですね。
アモス書5章前半、繁栄と贅沢によっていた北王国イスラエルの力ある人々、しかしアモスはここで彼らについての哀歌を歌います。2−3節の哀歌で歌われたことは、実際にはアモスが預言した時からおよそ40年後に現実になります。ですから、この哀歌をイスラエルの支配者たちは嘲りながら聞いた、いや、聞く耳を持たなかったことでしょう。
アモス書に限らず、預言者の書を読んで思うのは、「(まことの)預言者は辛い」ということです。喜んでいる人々に悲しみの歌を、またさばきのメッセージを届けなければならないのです。時代に媚び、人々が喜ぶことばを届けるならば、歓迎され、その名は高まることでしょう。しかし、それはできません。
ここでのアモスのメッセージで目に留まるのは、誰を求め、何を求めて生きるのかということです。ここでは繰り返し「主を求めて生きよ」と呼びかけられます。主への背きを、悪事を止(や)めて、罪を悔い改め、主を求めるならば、生きるのです。私たちが生きることと主を求めることとは強い結びつきがあるのだと、改めて思います。生きることと主を求めることとが乖離(かいり)している、これが今の時代。善を求める良き生き方は、主を求めることに始まるのです。
写真*ウォーキングの帰り、天気雨に襲われました