マタイの福音書 5章33−42節
5-7章は、山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれます。ここでイエスが教えておられる一つひとつのことは、なるほどそうだ、そうできならすばらしい、だけど無理!…というような答えが返ってくるようです。壁に吊した格言集のようなものに収めておくならば、そんな生き方ができたらすばらしいね,ぐらいで落ち着いてしまうのですが、「そのように生きよ、歩め」と言われたら,思わず後ずさりしてしまいそうです。
土曜日にも書きましたが、20節の「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」というイエスのことばにとどまりながら、イエスのことばを考えてみます。
33−37節は、「誓ってはならない」との教えです。このことばのもとはレビ記19章12節から来ています。「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」神の御名を持ち出して偽って誓うなどということは決してあってはならないことですので、この戒めにはうなづきます。
これに対して、イエスは「決して誓ってはならない」と言われます。それでは結婚式の際の「誓約」はどうなるのかなどという突っ込みが入りそうです。証言をするときの宣誓はどうなのか、高校野球の開会式での選手宣誓は……と。この後に「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさいと主イエスは言われます。誓ったことは誠実に果たすべきなのです。一方で最初からできっこないという思いで誓うことがあってはならないのです。どこまでも誠実であり続けよ、それが「あなたがたの義」なのだから、というのです。
誠実でない者のために主イエスが誠実を尽くされた、そこに私たちの誠実な歩みの元がある。ですから、このお方から離れて誠実な歩みはない、のです。