みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主(しゅ)が…

2018年03月26日 | ルツ記

ルツ記 1章

 日曜日には、当地から200㎞ほど離れたケルンにある日本語教会の棕櫚(しゅろ)の聖日礼拝に出席しました。道路の渋滞もなく開始1時間ほど前に着くことができたので、近所の緑地帯を散策。歩道の両脇にあるのは桜の並木ではありませんか! 🌸 東京の桜が満開だと報じられていましたので、余計に1本1本の桜の木に愛着が湧きます。あとで聞いたら、八重桜だそうで、あと一か月ほどで満開になるとのことでした。

 「みことばの光」では、きょうからルツ記を読みます。「ルツ記を読む前に」が書くように、この書の背景はイスラエルの「暗黒時代」とも言える士師の時代です。歴史の表舞台に名を残すことなどありえない、ベツレヘムに生きる小さな家族がききんのゆえに、異教の地に行くことからこの話は始まります。夫が死に、息子たちが結婚し、その息子たちが死に、自分と嫁たちが残される…。どこにでもあるような、家族の出来事です。

 しかし、家族が経験する喜びや悲しみを、ナオミは「主がなさったこと」として受け止めます。

 ナオミは、「主の御手が私に下さった」「…私を素手で帰され…」、「…私を卑しくし」、「つらい目に会わせ…」とも言っています。しかし、主をうらみ、さらには信仰を捨ててしまったということではないのです。

 彼女が嫁たちと連れ立ってベツレヘムに帰ろうと決めたのも「主がご自分の民を顧みて…」くださったからです。ナオミが嫁たちにモアブに戻るように促す時にも、「主が恵みを賜り…」「主がしてくださるように」と語ります。

 どのようなことにも主を認めることのできる恵みに感謝します。


いつまでですか

2018年03月24日 | 詩篇

詩篇 13篇

 本篇のはじめには、「いつまで」とのことばが四度出てきます。そのあとに、「あなたは私を永久にお忘れになるのですか」、「御顔を私からお隠しになるのですか」、「…思い悩まなければならないのでしょう」、「敵が私の上におごり高ぶるのですか」ということばが続きます。

 いろいろなことが立て続けに起こると、自分の知恵や力では対応しきれないところに追い込まれます。信仰者は常に主に信頼する者であるとはわかっていても、あるところまでは自分でやってみるかもしれません。けれども、どうにもならないところにはまり込んでしまったと力を失うときがあります。それでも、「主よ いつまでですか」と神ににじり寄ることのできる(きょうの「みことばの光」の表現)幸いをおぼえます。

 もはや自分の側には頼るべきものがないと追い込まれて、人は「あなたの恵みに拠り頼む」のではないのだろうかとも思わされます。いや、「人は」と書いたあとで、それは誰かのことではなくて、「私」なのだということに気づかされます。

 十字架の上での「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とのイエスの祈りを、思い起こしました。イエスがこのように祈られたゆえに、「いつまでですか」と祈ることのできる道が開かれているのだとも思うのです。


ことばの力

2018年03月23日 | 詩篇

詩篇 12篇

 春分の日が過ぎたのに、関東地方でも雪が降ったとのこと。当地も、昨日の昼前には雪が…。思わず、「春よ来い」を口ずさんでしまいました。東北地方の北部や北海道にお住いの方は、春の到来を待ち望んでいることでしょう。

 本篇を音読して、ことばの力を思いました。

 ここには二種類のことばがあります。一つは、悪しき者が用いることばです。ダビデは敬虔な人は後を絶ち、誠実な人が…消え去ったと主に助けを求めています。空しいことば、へつらいと、二心から出たことばが世の中を闊歩しているからです。

 ことばには力があります。人を喜ばせ、悲しませ、怒らせ、落ち込ませ、時には死にさえ追いやります。ことばで自分の考えを主張し、反対者をやり込めるのは世の中では日常のこと。インターネットニュースのコメント欄には、ざらざらとすることばが溢れ出ています。

 「この唇はわれらのものだ。だれが われらの主人なのか」とのことばに目が留まります。神を恐れずに、ことばでうまく切り抜けられたらそれでオーライとうそぶいているようです。

 しかし、もう一つのことばがこの詩篇にあります。主のことばです。混じり気のない、だれがどのように叩き壊そうとしても、決して動じないことばです。これこそ、この世界で信頼できるものです。

 ほんとうのところ、おまえはどちらのことばに頼っているかと心に問いかけます。


拠り所が壊されたら…

2018年03月22日 | 詩篇

詩篇 11篇

 本篇は「主に」ということばから始まります。ほかの何かではなくて、「主に」身を避けるのだということが強調されています。

 1節にある「あなたがた」がおそらくダビデの友人でしょう。きょうの「みことばの光」は、敗北主義者、悲観主義者だとしています。大変なところにいるときに、助言をしてくれるともを持っているのはありがたいことです。家族も親身になって心配してくれます。

 ダビデもこの時、彼のいのちを狙って矢が放たれようとするようないのちの危険にさらされていました。ダビデの生涯では、王になる前にサウルにしつこくいのちを狙われていた時と、我が子アブシャロムの謀反に遭った時のことを想像します。ダビデのことを気遣う人々は、逃げるようにと促します。彼らの理由は拠り所が壊されたのだから、正しい者であっても何もできない、正しいことが何の役にも立たないのだというのです。

 3節で「拠り所」と訳されているのは、土台や基礎を表わすことばなのだそうです。国の土台、生活の土台とは、為政者が正しく国を治めて、正義が生活の中に染み渡ることでしょうか。しかしダビデの友人たちは、ここではそれが壊されたのだから、危ないから逃げるのだと勧めるのです。

 けれどもダビデは頭を縦に振りません。主を拠り所としているからです。主は人の心の奥にあることまで見通して調べ、正しいさばきをなされるのだと信じているのです。

 しかし本篇は、どうせこの世界に正しい拠り所を求めても無駄なこと、だから早く神さまのところに…と勧めているのではありません。逃げないで、今ここで真の拠り所なる主に信頼せよと問うのです。


あなたは見ておられた

2018年03月21日 | 詩篇

詩篇 10篇

 「頭隠して尻隠さず」と言われます。小さな子どもたちとかくれんぼをすると、そんなことばを思い出します。自分では隠れたつもりでいるのですが、ちゃんとお尻が見えているといった具合です。本篇での悪しき者(以前の翻訳聖書は「悪者」と訳しています)とは、そのようなものなのだろうと思ったのです。

 この詩篇の作者の心というか、信仰は揺らいでいます。悪しき者が勝ち誇ったかのように振舞っているからです。彼らのことばを並べてみます。「神はいない」、「私は揺るがされることがなく、代々にわたって、わざわいにあわない」、「神は忘れているのだ。顔を隠して永久に見ることはないのだ」と、うそぶいています。「神なんていない、なぜなら、私がいないと思うからだ」というようなものです。

 不正を働いた人々がその場しのぎの言い逃れに終始するのは、だれも見ていないという考えに基づいています。ですから、ほとぼりが冷めるまで逃げていればそのうち騒ぎも収まると高をくくるのでしょう。

 けれども、本篇の作者はそうではないと反論します。「神よ、あなたは見ておられたのですね、じっと見ておられたのですね」と祈るのです。そのあなたが、虐げられた者や貧しい者のことばにしっかりと耳を傾けておられ、そればかりでなく、正しくさばかれるということを期待しているのです。

 ですから、彼は「立ち上がってください。御手を上げてください」と祈るのです。自分の祈りが神についてのどのような確信に基づいているのかを問われています。


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