創世記 31章36−55節
月に一度の子ども集会。子どもたちの日本語が上手に、私たちのドイツ語は…? 以前よりも、いっていることがわかるようになったのが前進の証しでしょうか。
ラバンに追いつかれ、テラフィムのことで疑われたヤコブは、ここでラバンに反撃します。ここには20年の間ラバンの元でヤコブがどれだけ忠実に働いたかが明かされます。ヤコブがこれほどはっきりラバンに話したのは初めてのことだったでしょう。これによるとまず、家畜を飼うという働きがどれほど苛酷なものかということを知ることができます。
野獣の襲来、家畜泥棒、昼の暑さと夜の寒さ、そして慎ましい生活、自分がどれほどの苦労をしてきたのかを、堰を切ったようにラバンに話しているのです。それとともに、ヤコブは神の介入のゆえに自分たちはこのようにして互いの言い分を伝え合うことができるのであり、神が正しく互いをさばいてくださったのだと、自分の苦労話をして相手の心に訴えるということをもくろんでいないことに気づかされます。
ヤコブの「反撃」にラバンはことばがありません。けれどもそれは、ラバンがヤコブを理解したということではありません。43節は、ラバンが何も変わっていないことを明らかにしているのでしょうか。しかし、ラバンはこれ以上ヤコブを責め、引き止めておくのは自分にとって得策ではないということがわかったのです。
そこで、双方が互いに相手に干渉しないように石塚、石の柱を立てようと提案し、契約を結ぶことになります。「主が私とあなたの間の見張りをされるように」とのラバンのことばが心に留まります。ラバンの一方的な言い方は引っかかるのですが、ヤコブはこれによって、晴れてラバンの元から堂々と離れることができるようになるのです。
神がともにおられるという事実が、どんなに大きなものであるのかということを、伝えているように読みました。