みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれが神をとがめえよう

2016年12月06日 | ヨブ記

ヨブ記 34章16−37節

 私にとっての休日の月曜日。それでもあれこれと貯まっていたことを片付け、夕方オルガンのコンサートを聴きに教会へ。きのうはバッハの「トッカータとフーガ」が演奏されていました。そのあとで、美味しそうな大根と蕪(かぶ)を買い求めて帰宅しました。オルガンを聴いた後で野菜をぶら下げて歩いている自分の姿が何となくおかしく、思わず笑ってしまいました。

 きょうの箇所で心に留めたのは29節。「神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。」ヨブは沈黙し続ける神に向かって、自分の訴えをぶつけ続けてきました。エリフはそのことを取り上げています。三人の友人とエリフとの違いは、三人がヨブの苦難の原因をせんさくしてあれこれ述べているのに対して、エリフはヨブが三人との対話の中で神を訴えていることを取り上げているところだと思います。

 「自分がこんなにも訴えているのに、どうしてあなたはお答えにならないのか」という問いは、その人が神に熱心であればあるだけ切実なものです。ヨブのように、神が黙っておられるのは神の側に何らかの問題があるのだとして、神をとがめるようなことに至ります。神の沈黙には意味があるのだとエリフはヨブを諭すのです。

 気づかないで、神を自分の物差に会うように縮めたり、自分の高さに引きずり下ろすようなことがあるのではないかと、問われます。


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