詩篇 106篇16ー31節
王が建てた山の上の城を訪ねました。行きはバスでスイスイと、帰りは自分たちの足で山道を降りました。いつも思うのは、こんな山の上にどのようにしてこれだけの資材を運び上げたのかという疑問。それほどまでして、王の力の大きさを誇示するという目的があったのでしょう。
詩篇106篇中段には、神を忘れ神に背いて怒らせた民と神との間に立つ人が出てきます。モーセとピネハスです。モーセは罪を犯した民のために神にとりなしました。ピネハスは、モアブの神々バアル・ぺオルを慕った、イスラエルの男とミデヤン人の女とを打つことによって神の怒りをを鎮めて、イスラエルは滅ぼされることを免れました。
「みことばの光」が書くように、この二人の先には、神と私たちとの間に立ち私たちのためにとりなし、十字架にかかってくださった主イエスのお姿があります。主イエスの十字架は、私たちが一人として神の怒りを免れないのだということに気づかせます。もしもキリスト者が、自分が救われたのは自分のうちに神を喜ばせる何かがあったからだなどと思うなら、とんでもない…のです。救われるというのは、自分では自分を救い得ないからなのです。
感謝に堪えません。
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