詩篇 114篇
しばらくの間ゼカリヤ書を読んできましたが、この時期にこの書を読むのはふさわしいことだったというのが、私の「読後感」です。昨日はスイス東部のあるご家庭で一緒に聖書を開きました。参加した皆さんが聖書を読んで発見したことに多くの気づきが与えられました。
詩篇114篇は、神がイスラエルの民に何をされたのかの回顧から始まります。本篇の他にも詩篇やその他の書には、このような回顧が何度も記されています。
1節の主語は神ではなくイスラエルですが、そこで歌われていることをしたのは彼らではなくて神なのです。「みことばの光」には、「イスラエルがエジプトから」ということばが聖書全体を貫く「救いのみわざ」を一言で表したことばとあります。
このことばは「イスラエルが幼い頃、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した」とのホセア書11章1節に受け継がれ、さらに「これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことばが成就するためであった」という、マタイの福音書2章15節へとつながります。
マタイのことばは、ヘロデを避けてエジプトに行った幼子イエスが再び戻って来たという出来事を指しています。このように、神の子であるイスラエルの民の体験と御子イエスの体験が重なるのです。
後に続く本篇の一つ一つのことばは、イスラエルの民がエジプトを出て荒野の旅をする中で体験したことです。そしてそれはまた、イエス・キリストによって罪の奴隷から解放されて約束の地を目指すキリスト者の歩みと重なります。
神は私の歩みのいつ、どこで、堅い岩から泉を湧き出させてくださったのだろうかとしばし立ち止まってみました。あの時にあの場所で……と。