詩篇 55篇
昨日から、年に一度の「ヨーロッパキリスト者の集い」が始まりました。今年のスモールグループのメンバー写真です。いつもは花や景色の写真なのですが、今日は皆さんの許しをいただいたので、集合写真を掲載いたします。初めてのことです。
詩篇55篇には思い出があります。神学校の時、夏休みにある教会の礼拝で説教をすることになり本篇から話させていただいたことです。ダビデが「悲嘆に暮れ 泣き叫んで」いたという状況について思うのは、サウルに追われていた時ではなくて、わが子アブサロムの謀反によってダビデがエルサレムから逃げてオリーブ山を登る場面です。
サムエル記第二15章30節に、「彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った」とあります。この時ダビデの敵となったのはわが子であり、頼りにしていた側近でした。
そのような背景をうかがわせるのが12−14節のことばです。彼のいのちを狙っているのはかつてはともに交わり、ともに礼拝していた者たちだったのです。ダビデが大きく嘆き悲しむのは、このような理由からでもありました。
本篇6−7節に「ああ 私に鳩のように翼があったなら。 飛び去って 休むことができたなら…… 私の逃れ場に急ぎたい」とあります。もしも、アブサロムによる謀反と本篇とが関わりがあるのでしたら、ダビデはエルサレムからできるだけ遠くに逃げなければならないと思っていたはずです。しかし、本篇を読み進めていきますと、「私の逃れ場」とは敵からできるだけ遠くにあるのではなくて、じつは「そこ」なのです。
自分のいのちを狙うものを神は必ずさばかれること、だからこそ自分は「あなたに拠り頼みます」と信頼しています。そここそ、私たちの「逃れ場」なのです。