サムエル記第二 6章
教会の礼拝に出席してくださった方と夕食をいただきました。唐揚げを喜んで食べてくださいました。あっという間に数時間が経っていました。
本章には、いわゆる「ウザ討ち」と呼ばれる事件が書かれています。ダビデが神の箱を運び上げようとしたというのは、ダビデ王のイスラエルが落ち着きをみせていたということを語っているのでしょう。またこのために三万もの精鋭を集めたということから、神の箱を大勢の者たちとともに迎えようとすることで、国を一つにまとめようという意図もあったのです。
ダビデはこの「一大イベント」のために、「新しい荷車」まで用意しました。今ならば、何とか映えするようなことだったと思います。しかし、このようなダビデの思いと願いは、とんでもない事件によって吹き飛んでしまいました。
神の箱を乗せた荷車を引いた牛がよろめき、箱が落ちてしまわないようにと手を出したウザが神に打たれてしまったのです。7節に「主の怒りが…」とあります。主はウザの何をお怒りになったのでしょうか。神の箱に手を伸ばしたということなのでしょうか。
目に留まるのは8節の「ダビデの心は激した」ということばです。ある英訳聖書は、「ダビデは、ウザに対する神の致命的な暴挙のために怒った」とまで訳します。一方で、あるドイツ語聖書は「主がこのようにウザを打たれたので、ダビデの心は恐怖で燃えた」と訳します。そのように考えると、「激した」とはどちらにも受け取れることばなのかとも考えます。
その後にある「三か月」ということばは、ダビデにとっては主に心を探られた期間ではなかったでしょうか。彼は、この事件について「なぜ」と問い続けたのではなく、三か月の間主の前に自分の心を探り続けたのだと思います。主がわれらとともにおられるというのはどのようなことなのか、その臨在の前に自分はどうあるのか……。
三か月後の契約の箱の運搬は、最初のそれとは違って派手さはなかったように思います。しかし、ダビデは神について、神の前の自分についてなくてならないことを学んだ結果としての、運び入れだったことは確かです。