レビ記 21章
木曜日午後、治療のために歯医者さんへ。いつもと違う先生が、「こんにちは!」と日本語で挨拶されたのでこちらがびっくり。いろいろと質問をするために、予め単語やことばを用意して受診したのですが、ちゃんと英語で説明してくださったので、これからの治療方針もよく分かって安心しました。日本語は、終わった時に、「さよなら」と二つだけでしたが…。
異文化で生活をすると、時々差別されているのではないだろうかと思うような態度に接することがあります。前後の方とは挨拶するのに、自分の番がきた時には全く何も言わないなどというスーパーのレジの経験もあります。聖書には「寄留者」ということばがありますが、自国を離れてみると、そんな折に自分は寄留者なのだと納得させられるようなことがあります。水曜日深夜に近くの町で起こった銃撃事件の報道を見聞きしても、同じようなことを思います。
イスラエルの民はやがて、神が約束されたカナンに定住することになるのですが、レビ記は、そのような彼らがその地に先に住む人々に染まってしまうことがないように、聖なる神の民として聖なる者であれという神のことばが続きます。21―22章は、神と民との間に立って務めを行う祭司はきよめられなければならないとの命令が記されています。
死によって身を汚すことがあってはならない、結婚の相手によって身を汚すことがあってはならない、障害のある人は祭司の務めを行うことができない…、現代の私たちからは疑問の声が出るような一つ一つかもしれません。けれども、これらは今私たちが考える「差別」という考えに基づいているのではありません。
「平等」が大切だと言われているのが現代。けれども、極端に走りやすいのも事実です。神は一人ひとりに異なったものを与えておられ、私たちの目から見たら不平等だと思われるようなことであるかもしれないと、考えるのです。 信仰とはそれを受け止め、受け入れることではないかと…。