ピリピ人への手紙 2章12−30節
ウォーキングの行き先をお店と定めて出発しました。ところが半分ほど歩いた所で財布を忘れたことに気づきました。途中でUターンして、今度はもう少し近くのお店での買物に出かけました。そのこともあって、一万歩という目標は達成できました。
パウロがピリピ人への手紙を書き送ったのは、ピリピの教会の中に人間関係の問題があったことが理由の一つです。昨日読んだ2章1−4節の勧めからも教会の課題が浮かび上がっています。そこでパウロが指し示したのは、教会の主であるイエス・キリストのお姿でした。特に、神であられるキリストが人間になったこと、しかも十字架の死に至るまでしもべとして神に従われたと伝えたのです。裏返すとピリピの教会には、キリストのお姿とは反対の生き方をする人々がいて、それが教会を混乱に陥れ、教会の在り方を大きく歪めることになっていたことが分かるのです。
12節の「こういうわけですから」というつなぎのことばは、キリストがこのようにへりくだられたのだから、神に従順であられたのだからという意味で用いられています。そして、パウロがピリピの教会に願うのは、いや命じるのは、キリストの従順に倣って、あなたがたも従順でありなさいということです。
「自分の救いを達成するよう努めなさい」とはどのような意味で用いられているのでしょう。パウロは、イエス・キリストを信じて救われた者たちの、つまりそのようにして生まれた教会の成長を促しているのです。前後の関係で考えれば、この13節の勧めは、個人にではなくピリピの教会に宛てられています。「神が…事を行わせてくださる」のだから、「神に従いなさい」と勧めています。
それによって教会は、この曲がった邪悪な世にあって世の光として輝くのです。パウロは、ピリピの教会がそのようになるのであれば、自分が命を落とすことになったとしても喜ぶとさえ言っています。
キリストのお姿を日々見させていただくなら、「こういうわけですから」というつなぎのことばの先に、どのような歩みがあるだろうかと考えるのです。