ゼカリヤ書 8章
スーパーでは小麦粉や油類が品切れになっているので、イースターの子どもたちのためのイベントで行う予定だった工作も変更を余儀なくされています。でも、家や町を追われて避難している方々のご苦労を思うと何のことはありません。
8章には読む者を力づけることばが連なります。エルサレムの回復、祝福の約束が語られているのですが、それはクリスチャンにも通じます。
神が彼らをねたむほどに激しく愛すると2節にあります。神のご自分の民への厳しい仕打ちは、このねたむほど激しい愛からでていたのです。さらに3節には、神がエルサレムのただ中に住むとのことばがあります。これは、神殿の建設工事を再開して、完成を間近にしている彼らにとってどんなに大きな支え、神殿完成への力になったことでしょう。描かれる平和がウクライナにも…という思いを持ちつつ4−5節を読みました。8節でも神がエルサレムのただ中に住むとのことばが繰り返されます。「彼らはわたしの民となり、わたしは…彼らの神となる」ということばが心に迫ります。
12節の「平安の種が蒔かれ」とのことば、さらに13節にはのろいから祝福となると言うことばも届けられます。それが勇気の源となるのです。断食についての質問への厳しい答えが前章にありましたが、ここには、断食が楽しみとなり喜びとなるという約束があります。
そして何よりのことばは、23節「私たちもあなたがたと一緒に行きたい」と外国語を話す人々が一人のユダヤ人に言うというもの。クリスチャンとしてそのような者であったら、どんなに光栄なことか、うれしいことかと思います。しかし、これはただの夢物語ではなくて、実現する神のことばなのです。