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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

一緒に行きたい

2022年03月22日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 8章

 スーパーでは小麦粉や油類が品切れになっているので、イースターの子どもたちのためのイベントで行う予定だった工作も変更を余儀なくされています。でも、家や町を追われて避難している方々のご苦労を思うと何のことはありません。

 8章には読む者を力づけることばが連なります。エルサレムの回復、祝福の約束が語られているのですが、それはクリスチャンにも通じます。

 神が彼らをねたむほどに激しく愛すると2節にあります。神のご自分の民への厳しい仕打ちは、このねたむほど激しい愛からでていたのです。さらに3節には、神がエルサレムのただ中に住むとのことばがあります。これは、神殿の建設工事を再開して、完成を間近にしている彼らにとってどんなに大きな支え、神殿完成への力になったことでしょう。描かれる平和がウクライナにも…という思いを持ちつつ4−5節を読みました。8節でも神がエルサレムのただ中に住むとのことばが繰り返されます。「彼らはわたしの民となり、わたしは…彼らの神となる」ということばが心に迫ります。

 12節の「平安の種が蒔かれ」とのことば、さらに13節にはのろいから祝福となると言うことばも届けられます。それが勇気の源となるのです。断食についての質問への厳しい答えが前章にありましたが、ここには、断食が楽しみとなり喜びとなるという約束があります。

 そして何よりのことばは、23節「私たちもあなたがたと一緒に行きたい」と外国語を話す人々が一人のユダヤ人に言うというもの。クリスチャンとしてそのような者であったら、どんなに光栄なことか、うれしいことかと思います。しかし、これはただの夢物語ではなくて、実現する神のことばなのです。


そろそろ…という思い

2022年03月21日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 7章

 礼拝後の分かち合いの時間、このところ「主の祈り」を心を込めて祈っていると、ある方が話しておられました。「御国が来ますように」との一つの祈りだけでも、多くのことを考え教えられます。「御国が来ますように」と心から願っています。

 バビロンに捕囚されていたユダヤ人は、年に四回の断食の時を持ちました。第四の月(6月17日)はエルサレムの城壁が破壊されたことをおぼえての断食、第五の月(7月4日)は神殿が焼かれたことをおぼえての断食、第七の月(9月3日)はゲダルヤの殺害によって残りの民が離散するようになったことをおぼえての断食、そして第十の月(12月10日)はエルサレムがバビロンに包囲されたことをおぼえての断食でした。

 第五の月の断食をしなくてもよいのではないかとの預言者や祭司への質問は、神殿の再建工事もいよいよ終わろうとしているからという理由に基づくものだったと考えられます。ある意味で、質問はもっともなものでした。「断食は止めにしよう。新しい時代に入ったのだから…」との答えを、人々は期待したに違いありません。

 けれども、答えは違っていました。彼らはけん責されたのです。「自分たちのためではなかったか」ということばです。

 目に留まるのは、6節の「食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分のためではなかったか」ということばです。イザヤ書58章の初めの部分に、神が好む断食とはどのようなものかが明らかにされています。断食とはただ粗布をまとって食べ物を断つということではなくて、隣人のために配慮し行動することなのだと神は語ります。

 何かを行うときに大切なのは、なぜそれを、誰のためにそれを行うかということ、本当の動機です。


心を探る空飛ぶもの

2022年03月19日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 5章

 より深く聖書を読み分かち合うかについてのセミナー。昨日はグループワークでした。途中10分の休憩を挟んで刺激的な2時間半でした。このあとさらに2回、グループワークが控えています。私は正午からのスタートなのですが、時差の関係で早朝や深夜にスタートする方もいます。スモールグループでケニヤの方と一緒だったのですが、鶏の鳴き声が聞こえてきました。どんなところにお住まいなのだろうと興味が湧きました。

 今では鳥以外のものが空を飛んでいても、驚くことはありません。見上げるとたくさんの飛行機雲が大空に描かれています。それでも、巻物と升が空を飛んでいるのを見たら腰を抜かすかもしれません。

 一つ目は「全地の表に出て行く巻物」。巻物といえば律法。この巻物には神の教えと戒めが記されています。巻物が全地の表に出て行って、そこに書かれていることに従って地がのろわれる、つまり、さばかれるのです。

 二つ目は「出て行くエパ升」。升は物を測るものです。ここでは升の中に女が閉じこめられています。女は神の民の罪を表しています。それを升に閉じこめて遠くに持って行きます。

 預言者からこの幻について聞かされた人々は何を思い、決断しようとしたのだろうかと想像します。これは神殿建設工事を進めよ、という激励とは違います。いや、より大きな意味では有効な励まし、勧めだと言えます。これによって、神殿を建てようとしている一人一人の心が探られます。形が整えばそれで良いのではなく、もっと大切なことがあるのです。神の前に自分がどのようであるか、ということです。


主よ、知りません

2022年03月18日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 4章

 同労の方としばらくぶりにメールでのやり取りをしました。1月に雪の中で自転車が転倒し、左脚の膝蓋骨、つまり膝のお皿を割ってしまわれたとのこと。7週間ギブスをし、現在は車椅子を用いているそうです。私も以前、バイクが転倒して同じ箇所を骨折したことがあり、その時の痛みを思い出しながら、メールを読みました。

 4章には、ゼカリヤへの五番目の幻が記されています。金の燭台の幻です。燭台の両側には二本のオリーブの木があり、そこから絶えず金の油が燭台に注がれているという絵が見えてきます。

 ゼカリヤ書の文脈では、両側の二本のオリーブの木とは二人の油注がれたもの、つまり総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを指すと考えられますが、この幻はそれにはとどまりません。二人はやがておいでになるメシアを指し示す「型」です。

 金の燭台が灯火を照らし続けるのは油があってのこと。この燭台には油が絶えることなく注がれているということから、イエスをメシア、キリストと信じた人々へと思いが至ります。その人々は、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」歩み、何事かを為すのです。

 本筋とからは外れますが、ゼカリヤが「主よ、知りません」と繰り返していることに目が留まりました。知らないからこそ教えていただけるのだということです。何歳になっても「知りません」と主に申し上げることができるようでありたい、です。


新しい衣を着る

2022年03月17日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 3章

 水曜日の午後、福島や宮城で大きな地震が起こったとの速報が飛び込んできました。今のところ(日本時間16日午前0時ごろ)大きな被害は報じられていませんが、深夜の大地震でしたので、不安だったことでしょう。

 この章には、ゼカリヤの見た4番目の幻が記されています。ゼカリヤは主の前に立つ大祭司ヨシュアを見ました。傍にはサタンが立っています。それはヨシュアを神に訴えるためです。大祭司であるのに、彼は汚れた服を来ています。その汚れはもちろん彼の内面の汚れを象徴しているのです。

 サタンは告発します。「神よ、ヨシュアが大祭司であってよいはずはありません。彼は、あなたの前に献げてはならないものを献げたのです。」マラキ書1章に祭司を責める神のことばがあります。「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。…」

 ヨシュアだけの問題ではないと、ここを読んで考えます。サタンは私の右手に立ち、私を訴えるのだろうと…。しかし、訴えられているのは全くの事実無根ということではないのです。「心に手を当ててよく考えてみよ」と問われたら、胸を張って何の問題もないと言い切れないわたしがいることに気づくかもしれません。

 御使いは、いや主は、ヨシュアの汚れた服を脱がせて大祭司の礼服を着るようにしてくださいます。4節の「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう」ということばを心に留めました。さらに、新約聖書コロサイ人への手紙3章9−10節に「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」を思いました。


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