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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

勝利のことば

2022年09月05日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 19章17−30節

 9月最初の日曜日、礼拝後に「カレーの会」をしました。5人の方がそれぞれのカレーを持ち寄り、40名近くが楽しみました。「バターチキンカレー」「ビーフカレー」「キーマカレー」「ひよこ豆のカレー」、「定番カレー?」と出揃い、どれも美味! やっぱり、カレー、好きですね。

 イエスが十字架を背負い、十字架につけられ、十字架上で息を引き取るのが今日の箇所。想像力をたくましくして、イエスがこの間味わわれた苦痛がどんなに激しいものかを描くことのできる場面ですが、ヨハネは淡々と筆を進めています。それによってヨハネは、イエスが自ら十字架に向かって行かれたことを伝えようとしているのかもしれません。

 そして苦しみの極みに断末魔のような叫びを発して死んでいったとではなく、「完了した」ということばを記します。このことばから、十字架につけられていのちを落とすことによって、信じる者が永遠のいのちを持つという神のみわざの完了を強調しているのです。「完了した」ということばの意味は、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げてわたしは地上であなたの栄光を現しました」という17章4節のイエスの祈りによって明らかです。

 それは、敗北ではなく勝利のことばだということ。この勝利は、私の、私たちのためのものでした。


光と闇の間を

2022年09月03日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 18章28−40節

 恐れながら祈りつつ臨んだことについて、予想をはるかに越えた出会いが待っていたという話を木曜日の夜に伺いました。涙が出るほど嬉しく、かつお話を伺っていて自然に笑っている自分がいました。神さまはすばらしいお方です。

 礼拝で使徒信条を唱えるたびに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と出てくるピラトが、この箇所の「主役」です。彼はこの時、ローマ帝国五代目のユダヤ属州総督でした。ヨセフスの「ユダヤ古代誌」にピラトへの記述がありますが、それによると彼は非道な人物との評価です。

 今日の箇所には「真理とは何なのか」という彼のことばがありますが、前後関係から判断すると、これは彼が真理を探究してイエスに尋ねたことばではないことが分かります。彼はできれば、イエスとは関わりたくなかったのですが、イエスを死刑に処する権限を持つゆえに、直接死刑を宣言することになりました。

 28節に目が留まります。ピラトの元にイエスを連れて行ったユダヤ人指導者たちが官邸の中には入らなかったという記述です。でっちあげの裁判をしてイエスを死に処すと決めた人々が、自分たちの言い伝えを守っているのです。このため、ピラトは官邸内のイエスと外にいるユダヤ人たちとの間を、何度も行ったり来たりすることになります。それはまるで、光と闇との間を、真理と虚偽、正義と悪の間を行ったり来たりする罪美となる私たちの姿を象徴するかのようです。

 ヨハネはこの書の初めに「光は闇の中に輝いている」、「すべての人を照らすそのまことの光」とイエスを証ししています。ピラトは光なる方のそばにいることが許されたのです。しかし、彼はそこにとどまる道を選びませんでした。これは悲劇です。


ペテロとイエス

2022年09月02日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 18章15−27節

 この一週間、朝明るくなるのが目に見えて遅くなるような感じがします。こんなことにも秋の訪れをおぼえます。

 この箇所での主要人物はペテロとイエスです。イエスはゲッセマネで逮捕されて大祭司カヤパのしゅうとアンナスのイエスに引いて行かれました。この時、イエスとペテロは互いに近い所にいました。

 しかし、二人の態度は全く違っていました。ペテロはもう一人の弟子(おそらくヨハネのことでしょう)とともにアンナスの家に着いて行き、中庭に入ることが許されました。イエスのことが気がかりだったのか、それともイエスがいなくなるのが心細かったのかどちらでしょうか。

 ペテロがイエスとの関係をきっぱりと知らないと言った、しかも三度も言ったことはどの福音書にも記されています。ヨハネはここで、ペテロと主イエスの双方を描くことで、悪の力、圧力への態度を対比させようとしたのかもしれません。

 ペテロは、へなへなと心をしぼませ、どこまでもイエスについて行くと言い切ったにもかかわらず、ここではイエスとの関係を否定します。「違う」、「弟子ではない」ということばで…。一方イエスは、大きな圧力の中にあっても堂々としておられます。

 人の熱意のなんともろいことかをペテロの態度やことばは改めて伝えます。それは決して他人事ではなく、まさに自分のことなのです。


わたしがそれだ

2022年09月01日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 18章1―14節

 9月です。今月から同じ教会に集う方が「みことばの光」を講読してくださるようになりました。嬉しいです!

 ここは「ゲッセマネの園」でイエスが逮捕される場面です。他の福音書には、ここでイエスが祈られる様子が書かれてあり、特にルカは「汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。しかし、ヨハネはそのことには触れずに、イエスが逮捕される様子を描きます。

 ここで目に留まるのは、イエスがご自分について言われた「わたしがそれだ」ということばです。ヨハネはこの言葉を三度用いています。この言葉はただ、「そうだ、わたしに間違いない」という意味ではありません。「聖書新改訳2017」という聖書の欄外には、この言葉についてギリシア語で「エゴー・エイミ」という言葉を注記しています。

 これは、イエスがご自分を神であることを言われるとき、何度も用いてこられた言葉です。ヨハネはこの福音書を何のために記しているのかをほぼ終わりの部分で明らかにしておられます。

 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネの福音書 20章31節

 今日の「みことばの光」はこのことを次のように書いています。「このことばと態度には、たいまつや武器を所持した彼らを後退させ地に倒す、圧倒的な力があった。」イエスは決して弱い方ではありません。とんでもない、神であられるお方です。だから、ここでイエスは力尽きて逮捕されてしまわれたのではないのです。

 ご自分から「わたしがそれだ」と言い、相手を倒すほどの圧倒的な力をお持ちでありながら、イエスはご自分を人々に、いや、父なる神にゆだねられたのです。逃げも隠れもしないで…。シモンが剣を抜いたのは、もしかしたら、イエスのこの力に束の間の勇気を得たのかもしれません。イエスを守るために抜いた剣、しかしこの時も彼は、イエスによって守られていたのです。


「一つに…」というとりなし

2022年08月27日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 17章20−26節

 久しぶりの雨です。でも、もう少し…と思うような降り方でした。土曜日は期待できそうですが。

 「大祭司の祈り」と呼ばれている主イエスの後半部分。20節には、弟子たちのためだけでなく、彼らが宣べ伝える福音によってイエスを信じる人々のためのとりなしでもあることが分かります。

 そしてイエスのとりなしは、イエスを信じる者たちを一つにしてくださいとの願いでした。「私たちは一つ」というスローガン的なことばはあります。「全党一丸となって」、「政府一丸となって…」などという言葉もたびたび聞かれます。

 しかし、これを聞く側が何となく白けた気持になるのはなぜでしょうか。「一つになる」、「一丸となる」ということばが、実際にそんなことはできないだろう…と、どこかで受け止めているからかもしれません。

 主イエスが弟子たちのために、そして教会のために祈っている「一つになるように」という願いには、驚くべきかたちがあります。22節です。「わたしたちが一つであるように」とイエスは祈っておられます。イエスの弟子たちが一つであることのモデルは、三位一体の神の関係にあるのだということなのです。

 それはみなが同じ顔をして、同じ服を着て、何を聞かれても同じことを語って…という「一つ」ではありません。一人のお方を主と見上げることから来る「一つ」です。

 イエスは、私のために、私たちのために、このことを祈っておられます。


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