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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主は民を打たれた

2024年05月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 32章15−35節

 水曜日午前の「オンライン祈祷会」に、日本からの参加者が! その方が学んでいる神学校では、きょうが「祈りの日」とのこと。ちょうど聖書はモーセのとりなしでしたので、素晴らしいタイミングだと思いました。

 主に促(うなが)されて山を下りたモーセが見たのは、ありえない民の姿でした。山の上でモーセは、彼らのため神にとりなしました。その中で彼は、民を「ご自分の民」「ご自身の民」と呼んで彼らを滅ぼさないようにと祈ったのですから、なおさらのことでした。

 誰かのためにいっしょうけんめい努力しているにもかかわらず、その相手のひどいありさまを目撃したら、力が抜けてしまうか、あるいは怒りが生じるのかもしれません。モーセは、十戒が書かれた石の板を投げ捨ててしまいました。

 アロンの言い訳は見苦しいものです。明らかに事実とは違う弁明をしています。25節に「アロンが彼らを放っておいた」ということばに目が留まります。相手が悪を行おうとしているのに、自分の身を守るために、あるいは「波風を立てない」ようにと、放っておくというのは、アロンに限ったことではありません。しかし、そのようなことによって共同体は崩壊に進みます。

 民が笑われているのは、主がそのように観られていることだと理解しているモーセは、このどんちゃん騒ぎの首謀者たちであろう3000人を殺すようにレビ人に命じ、さらに、自分のいのちを賭けて神にとりなしました。この章の終わりに「主は民を打たれた」とあります。モーセは私憤に駆られて衝動的に民を打つように命じたのではないことがここから分かります。

 アロンはどのような思いで一つ一つの出来事を見ていたのでしょう。


自分の神、主に

2024年05月22日 | 出エジプト記

出エジプト記 32章1−14節

 連休明けの火曜日、午後に買い物に出かけたのですが、この日から二日間はまたもやバスのストライキ。今度もアプリで知りましたので、徒歩で別のスーパーに行くことにしました。レジの担当者は日本語を少し話すことができて、昨日は「またねー!」と言ってくださったのがおもしろかったです。

 出エジプト記32−34章には、モーセが山に上っている間に民が金の子牛を拝むという罪を犯したこと、その顛末(てんまつ)が記されています。きょうの箇所では、民の圧力に負けたアロンが鋳物の金の子牛を造ったこと、民がそれを拝み、飲み悔いし戯れたこと、さらに主がモーセのほかのすべてのイスラエルの民を滅ぼすと言われたこと、モーセが民のために主にとりなしたことが書いてあります。

 ここでは、モーセの留守を預かるアロンの頼りなさが目に留まります。アロンは「ことばの人」ではないモーセのために、主が置いてくださった人。単にモーセの兄という立場だけではなくて、幕屋の製作の命令の中では、大祭司としての務めを担う人物でした。

 これまでモーセとアロンは、一人の人のようにして神からのことばを民に伝え、エジプト脱出に際して大きな役割を果たしてきました。しかし、ここではアロン一人では全く弱いということが明らかになってしまうのです。「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい」と叫ぶ民を説得できず、それどころか、金の子牛を造り、神々として民に示すのです。

 神は山の下で行われている愚行のすべてを知り、彼らを滅ぼすとモーセに言われます。10節に目が留まります。このことばはモーセの心をひくようなものかもしれません。しかし彼は、必死になって民のためにとりなします。そのようなことをしたら、神の御名があがめられなくなると訴えるのです。また、11節には「自分の神、主に」とあります。

 ここでのモーセの祈りは、十字架上のイエスのとりなしヘと通じます。そして、私たちにイエスの名によってとりなす者となるようにという、メッセージを届けています。 


神の霊を満たされて

2024年05月21日 | 出エジプト記

出エジプト記 31章

 聖霊降臨月曜日は当地では祝日。久しぶりに街中のオルガンコンサートに行きました。週二回月木に行われているコンサートは昨日で3989回目。来月下旬には4000回を数えるとありました。

 出エジプト記31章には、2つのことが命じられています。

 最初は、これまでに主がモーセに詳細に命じてきた幕屋とそこに備える器具類を製作することについてです。神が命じたものなので、一つ一つの器具や大祭司・祭司の装束が天から舞い降りてくるなどということはありません。当然、それらを作る者が必要です。

 目に留まるのは、神がベツァルエルとその補佐としてオホリアブを指名しているということです。製作の責任者と補佐がなぜこの二人なのかについては語られませんが、ここから分かるのは、神はすべての者を誰よりも、本人よりも知っておられるということです。

 ベツァルエルがモーセからこのことを聞いた時にどのように思ったかについては分かりません。喜びとともに受け止めたのか、躊躇したのか……。大切なのは、神が指名した彼らに、成し遂げるために必要なものを与えたということだと思いました。

 ベツァルエルには、「知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした」と3節にあります。そしてオホリアブや製作に携わる人々には、「知恵を授ける」と言われます。

 日曜日は聖霊降臨日曜日、ペンテコステを祝いました。この箇所を読んで旧約聖書ゼカリヤ書4章6節のことばをおぼえます。

 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって 」


誰のため、何のために

2024年05月20日 | 出エジプト記

出エジプト記 30章22−38節

 日曜日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝でした。ストラスブールからの若き音楽家たちによる賛美と証しを聞きながら、一人の人に神が為されることの大きさを覚えました。礼拝後にお茶の会を持ちましたが、私の赤色のネクタイを見て、「ペンテコステだからですか?」と 尋ねてこられました。聞くと、その方の教会では日曜日の礼拝では何か赤色のものを着けてくるようにということだったそうです。

 30章後半で命じられているのは、聖所の器具類や祭司を聖別するために注ぐ、「聖なる注ぎの油」を作ること、そして聖所で毎日焚く、香のささげ物で用いる「聖なる香」を作ることです。

 油も香も、新約聖書ではそれぞれ何かを象徴しています。祭司に油が注がれるのは、祭司が聖い神に仕えるためです。30節の「祭司としてわたしに仕えさせなければならない」ということばが心に残ります。

 それは、聖なる祭司とされたキリスト者たちに聖霊が注がれることを象徴しています。最初に書きましたが、昨日はペンテコステでした。復活し弟子たちを残して天に昇って行かれるイエスは、彼らに「聖霊によるバプテスマ」を授けられると約束されました。そして、イエスが天に昇って行かれて十日後に、弟子たちは聖霊に満たされたのです。

 それは、彼らが特別な人として高められるのが目的ではなく、福音を宣べ伝えるためでした。イエスが彼らに命じられたことを行うためでした。私にとって聖なる神に仕えるとは具体的にはどのようなことなのかと、立ち止まってみようと思います。


祭司の務めと備え

2024年05月18日 | 出エジプト記

出エジプト記 30章1−21節

 金曜日夕方、市の中心部に出ようと最寄りの停留所でバスを待っていたのですが、時間になってもバスは来ません。アプリで調べてみると、そこを通る2系統のバスのどちらも、1時間に一本程度しか走っていません。ストライキのようです。地下鉄も工事のために26日まで運休。結局近くのスーパーで買い物をして徒歩で戻って来ました。

 30章前半には三つのことが命じられています。1−10節には香を焚くための祭壇を作り、聖所に置くことと、祭司はここで朝と夕に香りの高い香を焚く務めをします。香を焚くことは神への祈りを象徴しています。それは民のために祈ること、とりなすという務めです。

 何度も確認することばですが、ペテロの手紙第一2章9節に、キリスト者の立場が並んでいます。それは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」です。大祭司イエスとともに、私たちもまた祭司としての務めをいただいています。

 11−16節には、人口登録のこと、その折に20歳以上の者は一人半シェケルずつの主への奉納物を納めるべきことが命じられます。15節に目が留まります。貧富の差が設けられていないということです。

 洗盤(17−21節)は、聖所の周りの庭に置かれます。聖所の務めに就く祭司が手を洗うためのものです。手や足をきよめる時、祭司は自分の内側がきよめられる必要をも覚えたのではないかと想像します。神への礼拝のプログラムを形だけ「こなして」いるのではないだろうかとの問いを、このような命令を読む中で覚えます。

 幸いな週末、そして聖霊降臨日をお迎えになりますように。


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