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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

同じように

2024年02月20日 | マタイの福音書

マタイの福音書 20章17−34節

 月曜日に先輩牧師ご夫妻を訪ねました。久しぶりでしたので、あっという間に時間が経ってしまいました。その足で病院へ。たくさんの荷物を預かって戻って来ました。治療の効果が出ているという、嬉しい知らせもお土産に……。

 イエスはガリラヤから都エルサレムへの道をたどります。都でイエスを待つのは逮捕、そして十字架、そのあとの復活だと、イエスは十二弟子たちだけに話されました。最初にご自分の受難を予告したイエスを諌めたペテロが、「下がれ、サタン」ということばとともに、イエスから叱責を受けたことはよく知られています。→16章21−23節

 20節以降にあるのは、イエスの受難予告とどう繋がるのだろうかと、考えてしまうような出来事です。ゼベダイの子とはヤコブとヨハネ兄弟のことです。その母親が、二人の息子を御国でイエスの右と左に座れるようことばがほしいと、イエスに大胆に願います。

 マルコの福音書は、母親ではなく、ヤコブとヨハネが願ったと書いています。どちらが本当なのでしょうか。きっとどちらも起こったことなのでしょう。

 イエスは彼らに答えます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と。二人はそれが何を意味しているのかおそらくは分からないままに「できます」と答えました。

 イエスがそこことばに「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」とお答えになったように、やがてヤコブはヘロデ・アグリッパによって殺され(使徒12章1−5節)、弟のヨハネは後に皇帝ドミティアヌスの手によってパトモス島に流されます(黙示録1章9節)。

 この二人に限らず、イエスの弟子たちを待ち受けているのは「杯」でした。しかし「杯」が何を意味しているのかについて、彼らはわかりませんでした。

 24節に目が留まります。「上昇」をめざしていたのは、二人だけではありませんでした。こんな彼らに、イエスは低くなるように、仕える者になるように、ご自分と同じように……と勧めるのです。


与えたいのです

2024年02月19日 | マタイの福音書

マタイの福音書 20章1−16節

 日曜日に出席した礼拝、子どもたちの賛美が生き生きとして、未来に希望を抱かせる教会だと嬉しくなりました。

 ここでの「天の御国のたとえ」は、ペテロの心の内側を照らすようなものだったのでしょう。彼はイエスに胸を張って言いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

 最初からあなたの弟子として歩んで来たのだから、私こそ、あなたから良いものをいただくことができるという思いが、このことばに隠されているように思います。

 イエスの「五時から男?」のたとえは、そんなペテロの、いやペテロたちの考えを打ち砕くものでした。確かに、社会の常識で考えるならば朝早くから雇われた労働者と、仕事が終わろうとする5時に雇われた労働者とが雇用者からもらえるお金が同じというのは受け入れられません。

 ですから、12節のいっしょうけんめい働いた人々の話には説得力があります。働く時間が違うのですから、給料に格差があって当然だと思います。

 イエスは、この話にはそんな抗議が起こるのをもちろん知っておられました。ですから、13ー14節のことばに目が留まります。主人は「友よ」と言っています。この呼びかけからは、主人の労働者たちへのこころが伝わってきます。

 14節の「与えたいのです」にも目が留まります。神の恵みを感じさせる覚えさせることばです。神は私にも「与えたいのです」と考えておられるのです。


身勝手な理屈

2024年02月17日 | マタイの福音書

マタイの福音書 19章1−15節

 病院の帰り道、梅林で名の知られた地を訪ね、さらに駅舎がユニークな駅を訪問。満開の梅は春の到来を告げています。

 イエスはガリラヤ地方からユダヤに入られました。エルサレムへの道です。そこでイエスを待っているのは十字架、そして復活です。その前に待っていたのは、さまざまな問いかけ。しかもそのほとんどは、真理を知りたいという思いから出たものではなく、イエスを陥れるための罠でした。

 イエスは、「あなたがたはわたしを罠に陥れようとしているので、答える義務はない」と無視したり、はねのけたりすることもできました。 しかしそれと知りながら、彼らの問いかけに正面から答えておられるのです。4−6節は、結婚式で司式者によって読まれる箇所。ということは、結婚とは何かについての答えがここにあるのです。

 ですから、イエスが離婚をよしとしておられないことは明らかなのです。けれども、イエスの答えを聞いたパリサイ人たちは、モーセの離婚状を取り上げて迫ります。この態度に、彼らの魂胆が透けて見えます。自分の都合で離婚するための抜け道のようなものを考えていたのでしょう。

 8節のイエスのことばに目が留まります。離婚状があるということは、初めから離婚ありきなのではないのです。しかし人は自分の理屈や論法で、離婚の「合法性」をでっち上げてしまいます。6節の「神が結び合わせたもの」は、結婚の大切な前提でもあるのです。


以ての外

2024年02月16日 | マタイの福音書

マタイの福音書 18章15−35節

 病院への届け物の帰り道は行きとは全く違うルート。以前何度も通った道だったと思い出し、懐かしくなりました。ここ数日の暖かさで梅の花が満開です。

 弟子の道についてのイエスの教えが続きます。ここでの主題は、罪を犯した兄弟を赦すことについて。イエスの弟子だからといって、完全な道を常に歩み、全く罪を犯さないなどということがないのは、聖書に登場するさまざまな人々によって、また私たち自身によって明らかです。

 ここでは、誰かに対して罪を犯した場合にどのようにするのか、具体的にイエスが教えておられます。そこには曖昧(あいまい)さはありません。当事者同士、次に信頼できる兄弟、そして教会に…というように拡がります。そのように主イエスが教えているということは、罪を認めることが難しく、大きな課題だからです。

 18節に目が留まります。これは、弟子たちそしてやがて誕生する教会にこのような権威が与えられているということなのですが、しかしそれは、神の心のうちにあるからです。もしも、弟子たちがそして教会が神のお望みにならないことについてまで何事かを決める、人をさばく権威を振るうとしたら、誤りだということを忘れてはならいと思うのです。

 罪を認めるよう促す、そしてさばきを行うということには慎重さと公正さが求められます。当事者双方の話に耳を傾けることをしないで、一方の訴えを鵜呑みにして他方に非ありなどとするのは、以ての外(もってのほか)。

 ペテロの問いかけへのイエスの答えにも驚きます。人の寛容さなど神のそれとは全く比較になりません。神が私たちを赦してくださったことの大きさに圧倒されるやりとりです。


向きを変えて

2024年02月15日 | マタイの福音書

マタイの福音書 18章1−14節

 来宅された方とお昼をいっしょにいただきました。久しぶりに訪ねたそこは、以前よりも美味しくなったと、感じました。

 最初に「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」と尋ねた弟子たちのことばに目が留まります。私が用いている聖書で「天の御国」と日本に訳されているのは全部で33。そのすべてがマタイの福音書にあります。さらに、そのうちの32回は主イエスが用いておられ、ここだけが弟子たちが用いています。

 なぜ彼らは「天の御国では」と尋ねたのでしょうか。「みことばの光」ではすぐ前の出来事とのつながりに触れていました。17章26節のことばに弟子たちは反応したのかもしれません。

 「われらの主イエスは素晴らしい。ましや天の御国では…」と思ったのでしょう。そしてそれは、彼らの立場が「天の御国」でどれだけ高いものになるのだろうという思いを持ったのかもしれません。

 もう一つ、主イエスが「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と言われた3節に目が留まりました。以前の訳では、「悔い改めて」とありました。「向きを変えて」は、弟子たちの思考、目標の方向を変えよとイエスが促しておられることが伝わってきます。

 弟子たちはどこを見ていたのでしょう。どこに向かおうとしていたのだろうかと想像が膨らみます。それはメシアであるイエスの弟子として上へ、上へと向いていたのだと思います。

 しかし、彼らの方向はメシアであるイエスの弟子としてはふさわしいものではなかったのです。そこでイエスが彼らの前に示したのが、子どもだったのです。「向きを変えよ」とイエスは彼らを諭されます。

 私はどこを向いているのだろうか……。


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