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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信仰が薄い・からし種の信仰

2024年02月14日 | マタイの福音書

マタイの福音書 17章14−27節

 長旅を終える頃に、富士山を眺めると「日本に戻って来た」という実感が湧いてきます。以前にも書きましたが、地図のとおりに景色が拡がっている(実際は逆なのですが)のです。重力ゆえに地にへばりつくようにして歩む私たち、時々は高い所から眺めることが必要だと思いました。 

 山から下って来た主イエスと三人の弟子たちを待ち構えていたのは、地の厳しい現実。イエスの評判を聞いたこの父親は、悪霊によって大きく苦しめれているわが子を弟子たちのところに連れて来たのです。父親の苦しみ、いや何よりも子どもの苦しみは想像さえできないほどのものでした。

 この父親がイエスの弟子たちのところに子どもを連れて来たのは、彼らにも息子を悪しき霊から解放することができると信じていたからです。ところが、弟子たちにはできなかったのです。なぜ彼らはできなかったのだろうかと、考えさせる箇所です。以前にはできたので、今度もできるだろうと彼らは考えていたのかもしれません。もしかしたら、これまでの成功がイエスへの信頼を奪ってしまったかもしれません。

 20節の「信仰が薄い」と「からし種ほどの信仰」に目が留まります。この二つが示す意味は全く違います。「信仰が薄い」ということばは新約聖書で5回用いられ、そのうちの4回はマタイの福音書で使われています。「信仰が薄い」とは「薄くとも信仰がある」と考えるかもしれませんが、そうではありません。「不信仰」「信仰がない」という意味でイエスはこのことばを用いておられます。しかも、相手は弟子たちなのです。 

 一方で「からし種ほどの信仰」とは、信仰がある、イエスに信頼しているのです。それはか細い声かもしれません。弱々しい人が神に信頼しているのかもしれません。子どもかもしれません。しかし、この人々には信仰がある、イエスを信頼しているのです。

 「ある」と「ない」とでは大違いです。


彼の言うことを聞きなさい

2024年02月13日 | マタイの福音書

マタイの福音書 17章1−13節

 日本に一ヶ月ほど滞在します。さまざまな課題を抱えての帰国ですが、良い出会いがあるようににと、神に祈りつついます。

 子どものための聖書絵本や教材などに描かれているイエスの姿は、優しそうな表情をしているものが多いのですが、ここでのお姿はそうではありません。

 連れて行ってもらったペテロやヤコブ、そしてヨハネは、山上でのイエスの変貌を目撃して、感動で胸が張り裂けるばかりだったようです。

 さらに、彼らはモーセとエリヤがイエスといっしょに語り合っている場に立ち合います。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表していると考えるならば、イエスが旧約聖書の律法と預言者が指し示していた約束を実現したメシアだということが明らかにされるのです。

 三人の驚きはさらに続きます。天からの声です。イエスがヨハネからバプテスマを受けられた時と同じ声です。3章17節に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」とあります。しかし、その時にはなかったことばがここで加えられます。それは「彼の言うことを聞きなさい」です。

 前章には、イエスがご自分の受難と十字架、そして復活を予告された時に、ペテロが「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と言ったことがありました。ペテロは子のことばだけでなく、変貌されたイエスとモーセとエリヤとがいっしょにいるのを見て、勝手な「提案」をしています。

 「彼の言うことを聞きなさい」は、そのようなペテロ(たち)のことを前提にしての天からの御声でした。しかし、主イエスの言うことを聞くのは、その時の弟子たちだけでなくて、イエスを主、メシアと信じる人々が、いや、すべての人々が心すべき御声なのです。


下がれ、サタン

2024年02月12日 | マタイの福音書

マタイの福音書 16章13−28節

 土曜日のストラスブールからの帰路、同乗者がいたのであっという間に帰宅した感じがしたドライブでした。まるでワープしたような…というと大げさに聞こえますが……。

 ペテロにとって、その日はジェットコースタに乗っているような気持ちだったのではないだろうかというのが、ここを読んで最初に思ったことです。

 ピリポ・カイサリア地方とは、ガリラヤ湖の北方、ヘルモン山麓にある潤いのある所です。おそらくこの時イエスは、安全のためヘロデ・ピリポの領地に退いたのかもしれません。イエスはここで、ご自分についての世の評判を弟子たちに尋ねました。それは評判が気になったということではありません。

 15節の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」とのことばに目が留まります。世はイエスについてさまざまな評価をするけれども、あなた(がた)はどうなのだとイエスは問われるのです。それはここでの弟子たちだけに求めておられる問いかけではなくて、今の私たちにも、いつでもどこででも向けられているものなのです。

 ペテロはマタイの福音書では弟子たちの代表のような位置にいます。その彼が「あなたは生ける神の子キリストです」と、模範的な告白をします。それはイエスが「あなたは幸いです」と言っておられることからわかります。

 けれども、ペテロはそのあとでイエスから「下がれ、サタン」を厳しいことばをかけられます。それはペテロがサタンだと言うのではなく、ペテロがイエスの苦難の予告を聞いて、神の子であるあなたにそんなことが起こるはずがないという言ったことが、サタンの願うことだったからです。

 自分たちが期待するメシアの姿と、イエスが歩まれるメシアの道とが大きく異なっていることに、この時弟子たちは気づいていません。私にとってイエスはどのようなキリスト(メシア)なのかと問われる厳しいおことばです。


かわいそうに

2024年02月10日 | マタイの福音書

マタイの福音書 15章29−39節

 入院している孫とメッセージのやりとりをしています。今日はストラスブールに行くと送ったら、「気をつけてくださいね♪」と返事が来ました。「大人だなぁ」と思った瞬間!

 ここにはメシアとしてのイエスのしるしが記されています。大勢の群衆が体の不自由な人を、おそらくそれは家族であったり、近所の人であったり、友だちであったりしたのでしょう、イエスのところに連れて来ました。

 イエスは、多すぎるとか、今で言えば「限定……人」などと言うことなく、彼らを癒やしました。そしてこのことは、癒やされた人や目撃した人々の心を神に向けることになりました。

 そして、いわゆる「4000人の給食」。32−33節のイエスのことばと弟子たちのことばに目が留まります。イエスは弟子たちを呼んで、「かわいそうに……。空腹のまま帰らせたくはありません」と言われます。心から群衆を心配しているのだということが伝わります。また、弟子たちが少し前に体験したことを思い起こすようにとのイエスの思いを感じさせることばだと思いました。

 ところが弟子たちは「そうですね、主よ! あなたにはおできになります。私たちはあの時のように喜んで働きます」とは言いません。否定的な感じがします。しかし、イエスはそのような弟子たちを用い、弟子たちが持っているわずかなパンと魚を用いて、多くの人々を満腹させるだけでなく、余らせるほど分け与えられました。

 イエスのなされることに携わるという、弟子の基本、本分をこの出来事から確認することができます。


立派な信仰

2024年02月09日 | マタイの福音書

マタイの福音書 15章21−28節

 あと数日で冷蔵庫を空にしなければならないのに、じゃがいもが残っています。そこで、コロッケを作りました。ひき肉とタマネギを加えて全部で13個のコロッケのでき上がり。11個は冷凍して、2個食べましたが満足の味でした。

 カナン人の女性が娘から悪霊を追い出してほしいと必死にイエスに願っています。弟子たちがさらせてほしいと願うほどですので、周りが見たらしつこくてどうしようもないということなのでしょう。

 しかし、この女性の身になれば彼女がイエスに食い下がっているのは理解できます。いっしょうけんめい育ててきた娘に悪霊が取りついて苦しんでいるのです。母親である自分にはどうすることもできないのですから、こんなに辛いことはありません。

 イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖周辺の喧騒から異邦人の地に逃れた時でしたので、弟子たちが「去らせてください」と言うのは分からないわけではありません。けれども彼らは、「5000人の給食」と呼ばれる奇跡をイエスがされた時も、「群衆を解散させてください」とイエスに訴えていました。弟子たちの提案はもっともなのですが、これでいいのかな? とも思います。

 イエスは、ご自分のところに来る人々を、弟子たちが考えるようには見てはおられません。この出来事では、弟子たちの信仰の薄さ(信仰の無さ)と異邦人の女性の立派な信仰とが際立っています。イエスは、ご自分に信頼する人を必ず顧みられるのです。


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