マタイの福音書 18章15−35節
病院への届け物の帰り道は行きとは全く違うルート。以前何度も通った道だったと思い出し、懐かしくなりました。ここ数日の暖かさで梅の花が満開です。
弟子の道についてのイエスの教えが続きます。ここでの主題は、罪を犯した兄弟を赦すことについて。イエスの弟子だからといって、完全な道を常に歩み、全く罪を犯さないなどということがないのは、聖書に登場するさまざまな人々によって、また私たち自身によって明らかです。
ここでは、誰かに対して罪を犯した場合にどのようにするのか、具体的にイエスが教えておられます。そこには曖昧(あいまい)さはありません。当事者同士、次に信頼できる兄弟、そして教会に…というように拡がります。そのように主イエスが教えているということは、罪を認めることが難しく、大きな課題だからです。
18節に目が留まります。これは、弟子たちそしてやがて誕生する教会にこのような権威が与えられているということなのですが、しかしそれは、神の心のうちにあるからです。もしも、弟子たちがそして教会が神のお望みにならないことについてまで何事かを決める、人をさばく権威を振るうとしたら、誤りだということを忘れてはならいと思うのです。
罪を認めるよう促す、そしてさばきを行うということには慎重さと公正さが求められます。当事者双方の話に耳を傾けることをしないで、一方の訴えを鵜呑みにして他方に非ありなどとするのは、以ての外(もってのほか)。
ペテロの問いかけへのイエスの答えにも驚きます。人の寛容さなど神のそれとは全く比較になりません。神が私たちを赦してくださったことの大きさに圧倒されるやりとりです。