goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神のものは神に

2024年02月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章15−22節

 日曜日は、私たちがクリスチャンとしての歩みを始めた教会の礼拝に出席しました。冷たい雨の降る日でしたが、ともに礼拝をし、礼拝後はうどんをみんなで食べて体も温まりました。朝には、遅刻してはならないと早めに新宿に着き、美味しいモーニングを…。店の名前がドイツ語なので親しみが湧きました。

 今日の箇所は、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に…」というイエスのことばで知られています。事の初めは、パリサイ人たちがイエスを罠にかけようとしてヘロデ党の者たちと結託したことです。本日の「みことばの光」が書くように、普段双方は水と油のように反発し合っています。ところが、イエスという共通の「敵」がいることによって、彼らはいっしょになってイエスへの質問を仕掛けたのです。

 どちらを答えてもイエスを追い込むような質問をしたのですが、彼らの目論見どおりには行きませんでした。21節のイエスのことばには、現代に通じる大切な原則があります。

 それとともに、このイエスの答えが、「カエサルのものはカエサルに」ということばが強調されて受け取られているのではないかと考えています。神のものを神に返しているのかと問われます。金銭はもちろんのこと、私たちの生活、人生においてなのだということに、気づかされることばです。


誰を恐れて

2024年02月24日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章33−46節

 数日前とは打って変わって、気温の低い日が続きます。そのようななかで病院へ。今回は入院しているお姉ちゃんの弟と妹との久しぶりの再会です。面会は許されていませんが、届けものを渡すというタイミングでちょっとだけ、廊下で会うことができるのです。毎日画面越しに会ってはいるのですが、実際に手を握ったりするのは格別だったと思います。

 権威をめぐって迫ってきた当時の権威者たちに、イエスは二つ目のたとえを話されました。このたとえは、これから祭司長たちがイエスに何をするのかの予告でもあります。このたとえでは、登場人物の特定を間違えずにする必要があります。本日の「みことばの光」には、主人は神を、ぶどう園はイスラエルを、しもべたちは預言者たち、息子は主イエスを、そして悪い農夫たちとは祭司長たちやパリサイ人をたとえています。

 主人が今度こそとの思いを込めて送ったにもかかわらず、息子は悪い農夫たちに殺されてしまう……、これは祭司長たちがイエスを殺すということです。

 40−41節に目を留めます。イエスがぶどう園の主人はその農夫たちをどうするかと訪ねた時、この時点で自分たちが悪い農夫にたとえられているとは気づかない祭司長たちは、もっともな答えを示しています。

 しかし、そのあとのイエスのことばを聞いて、彼らは憤ります。「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」とイエスが言われたからです。自分たちこそ神の国にもっとも近いと考えていたのに、イエスはそうではないと断言されたからです。

 最後の45節は、祭司長たちが本当は何を恐れていたのかを明らかにしています。彼らは神への恐れをどこかに追いやっていたのです。

 

 *マタイ21章23−32節について、読者のお一人から、イエスがたとえた「兄」と「弟」についてお問い合わせをいただきました。「みことばの光」では兄を取税人や遊女たちであり、祭司長たちは弟だとあったが、逆だと考えていた…とのことでした。お問い合わせありがとうございます。「みことばの光」そして本ブログをお用いいただきありがとうございます。

 31節で、「兄です」と祭司長や長老たちが答えたとき、イエスは取税人や遊女たちが先に神の国に入っていると言っておられます。一方でイエスは、行くと言って結局行かなかった弟の姿に祭司長たちを重ねているのだと考えることができます。ですから、ここでは取税人や遊女たちが兄にたとえられ、祭司長たちが弟にたとえられていると理解することができます。

 


権威

2024年02月23日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章23−32節

 帰国の折にと、人間ドックを体験しました。苦手なのはバリウムを飲んでの胃のレントゲン。げっぷが出そうなものを飲んだのにもかかわらず、げっぷを出さないようにするなどという「わざ」をしなければなりませんし、さらには台の上で体を二回り回転させるなどの難易度の高い「離れわざ」も…。無事終了しました。

 ここにあるのは宮での出来事です。そこで教えていたイエスのところに、「何の権威によって……」と祭司長や長老たちが迫りました。そうすることで、イエスがひるむのではないかと、彼らは考えたのかもしれません。けれども、イエスの答えは彼らが想定していないことでした。彼らは、イエスの問いかけに答えることができなかったのです。

 しかし、イエスはそれで終わりとはしません。28節は「ところで」から始まります。天からの権威に基づいて教え、わざを行っているイエスに、パリサイ人や祭司長たちが心を頑なにしていることが、どんなに愚かで危険なのかを、二つのたとえによって気づかせようとしておられます。

 31節に、「取税人や遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」とあります。これを聞いた「権威者たち」がどんな反応をしたのか、興味が尽きません。彼らにとってイエスが言われたことは全くありえません。どうして自分たちではなく取税人や遊女たちなのだと彼らは驚き、そして怒りを露にしました。

 権威を振りかざすと、本当の権威に気づくことなく、受け入れることもできないのです。


わたしの家

2024年02月22日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章12−22節

 「みことばの光」2月号に載っている「とあるグループの、ある日の分かち合い」という、その「とあるグループ」に参加しました。普段私が出席している祈祷会も「みことばの光」を用いているのですが、集う人によって個性が現われるのですね。良い時間を過ごしました。

 旧約聖書に預言されていたメシアとして、ろばの子に載ってエルサレムに入城したイエスが向かったのは宮でした。当時エルサレムには、ヘロデ大王が紀元前20年に大改修した神殿が建っていて、大勢の参拝者で賑わっていたのです。

 ここには、いわゆる「宮きよめ事件」「目の見えない人や足の不自由な人々の癒やし」、祭司長、律法学者たちとのやりとり、さらに翌日朝の「いちじくの木が枯れる出来事」が記されています。

 エルサレム入城後の出来事について、マルコの福音書11章11-25節も記していますが、読み比べてみると出来事の順序が違ったり、いちじくが枯れる時間的な経過が違ったりしています。どちらかが間違えているということでなく、焦点の当て方が異なっているからなのでしょう。

 13節の「わたしの家」ということばに目が留まりました。イエスは、ヘロデ大王が政治的野心ゆえに建てた神殿を「わたしの家」と呼びます。誰それが建てたからこれは本物ではない、だからやりたいようにさせておけばよいと、イエスは考えてはおられません。神殿の目的を明らかにしておられるのです。

 18節の「都に帰る途中」ということばも心に留まります。「わたしの家」があるからです。しかしそこは、イエスにとっては緊張の場です。ベタニアの滞在先はマルタ、マリア、そしてラザロの家でした。ご自分を心から慕う人々と共に過ごすのは、イエスにとっては安心できることでした。しかし、イエスは翌朝エルサレムに「帰る」のです。

 私はどこに帰るのだろうか……。


この人はだれなのか

2024年02月21日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章1−11節

 隣町のショッピングモール内の理髪店で散髪。帰りに洋服売り場に立ち寄ると、冬物一掃半額セール中。さらに30分限定でその半額となるということでたくさんの人がワゴンに群がっていました。「半額のさらに半額」は人を引き寄せます。

 マタイの福音書21章は主イエスのエルサレム入城の記事から始まります。先週の水曜日に受難節が始まり、今年は3月31日がイースターです。「みことばの光」は3月31日にマタイの福音書28章を読みますので、マタイはイエスの復活前の一週間ほどの出来事にかなりのスペースを割いていることがわかります。

 ここで主イエスがご自分が乗るための子ろばを用意されたのは、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」とあるからです。イエスは、ご自分が預言どおりのメシアだと明らかにしておられるのです。

 しかし、上着やなつめやしの枝を敷いて歓呼のうちにイエスを迎えた大勢の人々のうちだれが、数日後にイエスが十字架に架けられ殺されることを知っていたでしょうか。

 10-11節に目が留まります。「この人はだれなのか」と言ったのは、おそらくエルサレムに住む人々でしょう。彼らは、群衆(イエスにずっとついて来たののかもしれません)の熱狂に戸惑い、どちらかというとイエスに対して冷めた見方をしたのでしょう。

 けれども「この人はだれなのか」はイエスについて、だれもが自分自身にしなければならない問いかけでもあるのです。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki