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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

無駄なこと

2024年03月20日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章1−13節

 小さな荷物を送ろうと集荷所に行くと、営業を終えて6分経っていました。間に合いませんでしたので、もう一度明日チャレンジです。帰路、切手を貼った郵便物をポストに入れようとすると、ちょうど郵便物を回収するトラックと遭遇。こちらはぴったりのタイミングでした。

 きょう読む短い箇所には、三つのことが書かれています。はじめは、オリーブ山での話の最後にご自分が十字架につけられるために引き渡されると、イエスが語ったことです。二つ目は、イエスに敵する者たちがイエスを殺そうと画策していたことです。そして、三つ目はイエスへの香油注ぎです。

 最初の二つを改めて比べてみますと、以前から弟子たちに予告しておられたように、イエスは過越の祭りに十字架につけられると語っています。一方で祭司長たちはイエスを殺そうとするのですが祭りの間はやめておこうと考えていました。イエスの十字架は、祭司長や長老たちの思惑とは違って過越の祭りの時でした。ここからも、十字架刑が権力者たちの思いどおりになったのではなくて、イエスのお考えのとおりに進められたことが分かります。神のご計画が成るのです。

 香油注ぎの出来事は、マルコ、ヨハネの福音書にも記されています。ヨハネの福音書では12章1−8節にあり、香油を注いだ女性の名前、無駄だと最初に憤慨した弟子の名前も明かされています。

 「何のために、こんな無駄なことをするのか…」という弟子たちのことばが目に留まります。弟子たちの言っていることはもっともなことに響きます。「無駄だ」というのは説得力のあることばです。「無駄!」と言われると萎縮してしまうかもしれません。

 しかし、イエスのために何かをするのは無駄なのかと考えるのは大切なこと。「わたしに良いことをしてくれ」たとイエスが言ってくださるのを励みにしたいものです。


わたしにしたのです

2024年03月19日 | マタイの福音書

マタイの福音書 25章31−46節

 聖書同盟が発行している「日ごと」にの版下がほぼ完成しました。初版の発行は1976年とありましたので、ロングセラーです。昨今の書籍はすぐに絶版になることを考えると、本書は貴重な存在だと思います。発行されたら、詳しく紹介させていただきます。

 終末を待つ、すなわちキリストの再臨を待つ人々のこころえについて、イエスは三つのたとえを用いて話しておられます。きょうは三つ目のたとえで、「羊とやぎのたとえ」と言われているものです。しかし、厳密に言うなら三つ目はたとえではなく、比喩です。

 31節に目が留まります。イエスはここで、ご自分が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来る」と言われます。その時に、それまでは明らかにされなかったことが明らかにされます。

 ここでは、おいでになる「人の子」、つまりイエス自身がすべての国の人々をより分けるのです。「イエスなど知らん」「私には関係がない」などと考え、言っていた人々もすべて、イエスの前に立ち、さばかれます。「さばく」には、「より分ける」との意味があります。

 人々を右と左に分ける基準は何でしょうか。イエスに対して行った愛のわざです。イエスの右に集められる人々は、イエスが空腹だった時に食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ……とあります。他方、イエスの左に集められる人々は、イエスが空腹だった時に食べ物をくれず、渇いていた時に飲ませず……とあるのです。

 その時に、「イエスだとわかっていたら…」と嘆く人々も多いのではないだろうか……。しかし、イエスは「最も小さな者の一人」として私たちの目の前に現われるお方なのです。「わたしにしたのです」ということばに目を心を留めましょう。


タラント

2024年03月18日 | マタイの福音書

マタイの福音書 25章14−30節

 木曜日に帰独、土曜日にストラスブールへ、そしてきょうの礼拝。帰宅したらどっと疲れが出た感じがします。人間は為すべきことがあるとどこか気が張りつめるのでしょうね。それを終えると弛緩し、ヘタっとなります。でも、この感覚が大事なのだと思います。

 終末を待つ態度について、イエスが話されたたとえの二つ目は、「タラントのたとえ」です。ここでのタラントとは、1デナリの6000倍。1デナリは一日分の労賃だと考えられていますので、1タラントは相当な金額だということが分かります。

 ここでは、5タラント預かった者も2タラント預かった者も主人から同じおほめのことばをもらっています。しかし、1タラント預かった者は逆に叱られているのです。1タラントを彼は使い果たすことなく、地面に穴を掘って何の損失も主人に与えなかったのだから、主人は叱るべきではないという「突っ込み」がはいりそうです。

 いいえ、そうではありません。主人が三人のしもべに期待していたたことは、彼らが預かったものをどのように用いるのかということでした。ですから、それを用いることなく土の中に隠す者は「悪い怠け者のしもべ」なのです。

 神は一人一人に応じてタラントを与えておられること、そして神から与えられたタラント(賜物)は用いなければならいということを考えます。さて私に神は…と立ち止まってみましょう。


喜びと嘆きと

2024年03月16日 | マタイの福音書

マタイの福音書 24章29−51節

 気がついてみると太陽が早くに昇り、西の空に沈むのが遅くなりました。また、気がついてみると春を知らせるレンギョウの黄色い花が咲き誇っています。

 これから先に何が起こるかについてのイエスの弟子たちへの話が続きます。それは「人の子」、つまりキリストの到来に向けての話でした。

 ここでイエスは、キリストの来臨の際に起こることを話します。すでに前の段落では、イエスを信じる人々が苦難に遭うと話されました。また、天変地異が起こること、「人の子のしるし」が天に現われることを明らかにされます。けれども、「人の子のしるし」が何かについて、主イエスは触れていません。

 30節に目が留まります。人の子のしるしは、限られた所で限られた人だけに現われるのではなく、また人の子が来るのもすべての人々に認められます。「地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ」とあります。キリストが再びこの世界に来るのは、ある人々にとっては大きな喜びであり希望なのですが、ある人々にとっては胸をたたいて悲しむ出来事なのです。

 つまり、キリストの来臨が人々を分けます。それを待ち望む人にとっては大きな喜びなのですが、考えもしなかった人にとっては大きな嘆きと悲しみをもたらします。

 ここから、私たちが何を喜ぶのか、喜んでいるのかということを考えるのはたいせつだと思います。人は生まれてからこの世を終えるまでたくさんの喜びや悲しみを経験します。キリストが再びおいでになるのは、この世で私たちが経験するすべての喜びにはるかに勝って喜ぶべきこと、そう考えることができるのは幸いなのですね。


その先にあるもの

2024年03月15日 | マタイの福音書

マタイの福音書 24章15−28節

 一ヶ月不在でしたので、冷蔵庫が空っぽ。ということで買い物に出かけました。おいしい苺を見つけましたので、1パック購入。じゃがいも、タマネギ、ニンジンという「素材三兄弟(?)」も籠に入れたのですが、持ち帰るのが重かったです。

 これから先何が起こるのかについての主イエスの教えは、より具体的になります。15節には「荒らす忌まわしいもの」とありますが、これは主が言われたようにダニエル書に預言されたもののことです。そして、それはすでに、シリアがエルサレムに侵攻したことによって実現しました。シリア王アンティオコス4世(アンティオコス・エピファネス)は、エルサレムをギリシア化しようとして、紀元前167年にエルサレムの神殿でゼウスにささげ者をするように強制したのです。

 しかし主イエスは、「荒らす忌まわしいもの」はさらに出現すると語っておられます。それが紀元70年のローマによるエルサレム破壊という出来事です。16節以降にある具体的な指示は、その時にどのように行動するべきなのかについてのものだと考えられています。23節以降の「偽キリスト」「偽預言者」の出現も、紀元70年に見られたと言われます。

 けれども、ここでイエスが語っておられることは、歴史上すでに起こった二つの出来事ですべてなのではありません。これからこの世界が通らなければならないことでもあるのです。

 人はどんな未来を描いているのだろうかと、ここを読んで思います。ある人はどんどん良くなるという未来像を描きます。しかしある人はそれとは逆に絶望的な未来を予想しています。イエスを主と信じる人々はどうだろうかと考えます。イエスがこのように未来について詳しく語っておられるということから考えますと、信仰者にとって未来は確かな希望なのです。多くの苦難や惑わしを経験する、その先にあるのは平和であり、喜びであるのです。


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