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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

それから終わりが

2024年03月14日 | マタイの福音書

マタイの福音書 24章1−24節

 13時間の飛行時間を終えて、帰宅しました。さすがに疲れましたが、空港までの送迎を親しい方々にしていただき、それだけでも疲れが取れました。きょうからまた、日常が戻ってきます。

 24と25章は、主イエスがオリーブ山に座って弟子たちにこれから先に起こることについて話されたことが書かれています。きっかけは弟子たちがイエスに向かって宮の建物を指し示したことでした。

 マルコの福音書13章1節には、弟子の一人が言ったことばが記録されています。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」ルカの福音書21章5節には「宮が美しい石や奉納物で飾られていると、何人かが話していた」とあります。

 イエスのことばに衝撃を受けたのでしょう。この壮大で素晴らしい宮を形造っている石が崩されるのはいつなのだろうかと、弟子たちは尋ねました。弟子たちの問いに答えてのイエスの話は、この部分ではこれから先どのようなことが起こるのかについての、総括のような内容です。

 イエスは終わりがあることに言及しておられます。さらに、終わりの時のしるし、イエスに従う者たちが大きな苦しみに遭うこと、福音が全世界に宣べ伝えられること、そのような中で最後まで主イエスに信頼して苦しみに耐え抜くようにと続けます。

 終わりがあるということについて、人はあまり触れたがらないのですが、それは誰もが、そしてこの世界が避けて通ることができないものだということに、気づかされます。


外側と内側

2024年03月13日 | マタイの福音書

マタイの福音書 23章27−39節

 神さまがくださった日本でのもう一日。お昼はおいしいラーメンを食べました。妻が卒業した小学校の向かいにあるそのお店のラーメンは、煮干しダシのよく利いたスープで、とても美味しくいただきました。食後には、母校の前で記念撮影も……。

 嘆きを伴うイエスの憤りは、パリサイ人と律法学者たちに向けられています。ここでは、「外側と内側」ということばに目が留まります。外側が白く塗られた墓の中には骨が満ちているように、偽善者とは外側の正しさとは裏腹に、内側には不正が満ちていると、イエスは指摘します。

 人は体裁を繕います。高価な服を着ている人の心の中がどのようになっているのかは、なかなか見えにくいものです。人の目を欺くことはできても、神であるイエスの目にはすべてのことが明らかにされます。

 すべてを知るお方とともに生きていくのは窮屈なのでしょうか。

 パウロはコリントのキリスト者たちに「主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」と書きました(コリント人への手紙第一 4章5節)。表と裏を、外側と内側とを演じ分けなくてもよいというのは、むしろ穏やかに居続けられることではないでしょうか。

 乱れた髪を調え、汚れた服を着替えるというのは、人前に出るために必要な備えだと思います。けれども、本当の姿以上に自分を立派なものに見せようとすることはないのです。自分の立場や肩書きに拠り頼むことなく、すべてを知るお方を信頼して歩もうとする者を、主は「わざわいだ」とでなく、「幸いなことよ」と言われることでしょう。


目の見えない案内人

2024年03月12日 | マタイの福音書

マタイの福音書 23章15−26節

 本来ならきょう戻るはずでしたが、航空会社のストライキの影響で明日に延期されました。コールセンターの方の的確な案内で、無事に代替便を確保できました。お風呂に入れる……など、一日得をしたような気持ちです。

 「みことばの光」では、マタイの福音書23章は三回に分けて読むのですが、今日はその中段。ここでは、「わざわいだ」ということばから始めて、主イエスが律法学者やパリサイ人たちを非難しています。

 「わざわいだ」は、他の日本語聖書では「不幸だ」、「災いあれ」などと訳されています。もともとは嘆きや痛みを表す間投詞で、日本語では「ああっ!」などと表し、13節から29節の間に7回も用いられています。なぜこれほどまでに、パリサイ人や律法学者たちにイエスが激しい嘆きを表すのでしょうか。彼らが人々の大きなつまずきになっているから、彼らがいっしょうけんめいしていることが人々を神から、神の国から遠ざけているからです。

 イエスは、彼らが熱心だということを知っておられました。しかし、その熱心はイエスがこの世界に届ける福音を妨げるものでした。だからこそ、彼らが熱心であればあるだけ、イエスの「ああ!」という嘆きは響きわたるのです。

 「目の見えない案内人」ということばを心に留めたいと思いました。彼らは人々を神のもとに導く案内人を自称していました。しかし、肝心の案内人には本当に大切なものが見えていないのです。彼らを案内するべき道が見えていないのです。そんな案内人に連れて行かれるところがどこかは明らかです。

 自分は誰によって案内されているのだろうか、自分は誰をどこに案内しようとしているのだろうかと、少し静かな時間を取るのはどうでしょうか。


先生と呼ばれてはいけない

2024年03月11日 | マタイの福音書

マタイの福音書 23章1−14節

 一時帰国最後の日曜日は、千葉にある教会の礼拝に出席しました。昨年伺った時に洗礼を受けた若いお二人が、礼拝者としておられたのが嬉しかったです。帰りは美味しい餡蜜をいただいて帰宅。

 2節の「モーセの座」とは、当時の律法学者やパリサイ人たちが律法を教える立場にいたということです。彼らが教えることは正しい、しかし実践が伴わないと受け取られてしまいますが、実際には彼らの教えも歪(ゆが)んでいました。ですからここでイエスは、彼らのことを皮肉っておられるのです。

 それにしても、言うことはすべて実行せよ、しかし行いをまねてはいけないとは辛辣(しんらつ)です。彼らは人に重荷を負わせるが助けようとしませんし、彼らの関心事は人の前に自分がどのように映るのかということでした。

 けれどもこれは、イエスの時代の律法学者やパリサイ人だけのことではありません。イエスは「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません」と弟子たちを教えておられます。

 「先生」と呼ばれることに慣れてしまうと、自分が神の前にどのような者であるのかが分かりにくくなります。また、自分のために何かをしてもらって当然だという思いが、いつの間に渇いてきます。

 そのような「罠」から守られるためには、「あなたがたの教師はただ一人」「あなたがたの父はただ一人」「あなたがたの師はただ一人」という事実から目を逸(そ)らさないこと。それは教会に教師がいてはならないということではありませんし、家庭で父を敬ってはならないということを意味しているのではありません。「先生」と呼ばれる者への謙遜を促すことばなのです。 

「先生」と呼ばれる者は、自分をよく見張るのではなければならいと言われます。


聖書も神の力も知らない

2024年03月09日 | マタイの福音書

マタイの福音書 22章23−33節

 街中の洋食屋さんでお昼をいただきました。昨年6月にオープンしたご夫婦で切り盛りしているかわいいお店でした。デザートのパウンドケーキはプレゼントのこと。再訪確定です。

 「みことばの光」は久しぶりにマタイの福音書に戻って来ました。これから3月31日のイースターに向けてイエスの十字架への道、そして復活の出来事を読みます。

 エルサレム入城と十字架との間、さまざまな人々がイエスに問いかけてきました。その多くはイエスを陥れようとしての質問なのです。ここでは復活をめぐってのやりとり。

 サドカイ人は復活を信じていませんでした。それでいながら復活について尋ねるのは、イエスに悪意があってのことです。それにしても彼らはよくぞこのような質問をイエスにぶつけたものです。彼らはイエスが答えに詰まって立ち往生することを期待していました。

 29節の「あなたがたは聖書も神の力を知らない……」との、イエスのことばに目が留まります。死んだ者が復活するなど、この世の力、人間の力ではどうにもなりません。これまでも権力者たちは死を克服するためにさまざまなことを試みてきました。しかし、死は彼らの前に立ちふさがったのです。死人を復活させることができるのは、人を造り人にいのちを与えられた神お一人。自分たちが罠にかけようとしていたイエスこそ、そのお方であることをサドカイ人たちは知りません。

 多くのことを探求し、知るようになった私たち。しかし、それでも私たちは「聖書も神の力を知らない」のです。金曜日に読んだ詩篇48篇最後の「神は 死を越えて私たちを導かれる」ということばを、きょうも思い浮かべます。 


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