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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

はね返される後悔

2024年03月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書 27章1−10節

 月曜日、市南部の広大な森の中を、約8キロほど歩きました。トラムに乗るために角の「アイス屋さん」を通ると、お友だちのご夫妻が! 会えるとは思っていませんでしたのでびっくり。寄り道をして美味しいものをいただきました。良い時間をありがとうございます。

 大祭司の家での尋問を経て、最高法院が開かれました。はじめから「死刑ありき」の裁判です。しかし、死刑執行の権限はローマ総督が持っていました。そこで、イエスはローマ総督ピラトの手へと引き渡されました。

 3節以降では、ユダのことが描かれています。ユダはまさかイエスが死刑に定められると考えてはいなかったのでしょう。彼は後悔して、受け取った銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしました。

 4節の「私は無実の人の血を打って罪を犯しました」ということばに目が留まります。彼は自分が罪を犯したことを打ち明けました。しかし、ユダのことばは「われわれの知ったことか。自分で始末することか」ということばで、はね返されてしまったのです。

 自分が罪を犯したとき、人はどのように身を処すのでしょうか。ある人は「自分には責任がない」と逃れようとします。誰かのせいにすることもあります。「反省しなければならない」ということばを語るけれども、本当は詫びようとしないという人もいます。ユダのように「私は……罪を犯しました」と反省する人もいます。

 ユダは誰に対して「私は……罪を犯しました」と言うべきだったのだろうかと、考えます。誰に…の答えは明らかです。彼は言うべき相手を取り違えました。つまり、神に罪を告白する、悔い改めるのではなくて、単に後悔しただけでした。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」という、ヨハネの手紙第一1章9節を覚えます。 


鶏が鳴いた

2024年03月25日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章57−75節

 ここ三日ほど、青空の後は黒雲、雨、いつの間にか青空そして黒雲…という天候です。寒い日曜日でしたが、「三寒四温」と言われる、そのようにして春が訪れる感じです。

 この箇所には、イエスに対する不当な尋問、そして窮地に追い込まれるペテロが描かれます。

 ゲツセマネで逮捕されたイエスは、大祭司カヤパのところに連れて来られました。ここには現在「鶏鳴教会」が記念として建っています。

 ここでイエスは最高法院による尋問を受けるのですが、最初から結論がある不当なものです。死に定める証拠が得られない中で、「おまえは神の子キリストなのか」との質問に、イエスが「あなたが言ったとおりです」と答えたことを、大祭司は「神を冒瀆した」と言いました。そして最高法院はイエスを死に値するとしました。

 一方外ではペテロが追い込まれていました。彼は自分を守るためにイエスとの関係を三度も否定しました。それは、イエスが予めペテロに語っておられたとおりだったのです。

 主イエスもペテロも迫られていました。その中で、主イエスはご自分を貫き、ペテロは自分を偽りました。イエスはご自分についての真実以外を語らず、ペテロは自分とイエスの本当の関係を切るようなことばを発しました。

 鶏の泣き声は、ペテロにとってはイエスとの関係を思い起こさせる助け船のようだったのではないでしょうか。


死ぬほどの悲しみ

2024年03月23日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章36−46節

 久しぶりの昼食付きの聖書の会。聖書もお料理もおいしく頂戴しました。

 ここは、イエスがゲツセマネという場所で祈られたことが記されています。「ゲツセマネ」とは「油しぼり」という意味。そこはオリーブの果樹園で、オリーブ山のふもとにありました。

 ヨハネの福音書18章1節は、「キデロンの谷の向こう」にあり「そこには園」があったと書いています。そして2節には、「イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられた」とも説明しています。イエスと弟子たちが過越の祭りのためにここで野宿したのだろうと考えられてもいます。

 そこはイエスにとっては祈りの場所、格闘の場所でした。イエスがこの祈りをするために、弟子たちにも座っているよう求め、ペテロとヤコブとヨハネを伴って園の中に入って行かれました。

 38節の「悲しみのあまり死ぬほどです」というイエスのことばが目に留まります。イエスは、父なる神のご計画を知り、淡々と悩みなく十字架に向かって行かれるのではありません。ここに受肉された神の御子ゆえの苦しみが明らかにされます。人となられたがゆえに、神の御子が死のうとしているのです。

 それは、イエスの個人的な苦悩ということではありません。イエスはすべての人のための罪の贖いゆえに、死ぬほどの苦しみをしておられるのです。「すべての人のため」と書いて、そこにもちろん私がいることに、気づきました。つまり、神の御子イエスをそこまで苦しめたのは私なのだということに……。

 結局イエスは、お一人でこの苦悩と戦われ、三度の格闘を経て、「罪人の手に渡される」道へと進んでくださったのです。


決して

2024年03月22日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章26−35節

 日本からのお客様が…。本当にしばらくぶりの再会でした。私たちは年を重ねたことを実感し、当時小学生だった方の姿に、成長の跡を覚えさせていただきました。

 きょうの箇所のはじめには、イエスが聖餐を制定されたことが記されています。私たちが礼拝で聖餐式を行う時に読まれる聖書です。聖餐式のたびに、「主イエスをおぼえて」ということばの重みを、29節のことばに希望をおぼえます。

 同じ出来事をルカの福音書で読みますと、イエスがパンを裂き杯を分け与えた後で、「…わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります…」言われたとありますので(ルカ22章21−22節)、ユダはパンと杯に与ったと読めます。しかし、マタイの福音書やマルコの福音書によると、ユダの裏切りについてお語りになった後で、イエスはパンと杯とを分けられたと記されています。

 時間的な順序をすんなりとは定められない事柄の一つです。ちなみに本日の「みことばの光」は、後者を採って「主イエスを裏切ろうとしていたユダがその場を去った後、主イエスは聖餐を定められた」としています。

 31節の、「今夜わたしにつまずきます」とのイエスのことばに目が留まります。ペテロはそのことばに応じました。「私は決してつまずきません」と…。しかも彼は、「たとえみながあなたにつまずいても」と言うのです。強い自己アピールです。彼の確信の強さが感じられます。そして、イエスが具体的なペテロの行動を予告しても、彼は自分の確信を覆そうとはしません。

 イエスのことばよりも強い確信を持つ…、危険なあり方です。


まさか私では……

2024年03月21日 | マタイの福音書

マタイの福音書 26章14−25節

 水曜日は朝8時半頃から11時過ぎまで工事のための停電。冷蔵庫などの音が聞こえず、いつもよりも静かな時間を過ごしました。

 受難節の今、「みことばの光」はマタイの福音書をゆっくり読み進めています。ここには、十二人の一人ユダがイエスを裏切ることが書かれています。

 ユダがなぜイエスを裏切ろうとしたのか、動機については明らかにされていませんが、ベタニアで、一人の女性がイエスに香油を注いだとき、弟子たちが「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨したとマタイの福音書26章8−9節にあります。

 同じ出来事を記すヨハネの福音書12章4−5節では、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったと書いています。それに続き、ユダは貧しい人のことを心にかけていたのでなく、金入れを預かりながら盗んでいたからだと、ユダの言葉の背景を説明するのです。

 銀貨1枚は4デナリという価値。30枚は120デナリ、およそ四ヶ月分の労賃に相当すると考えられます。すぐ前の出来事で、女性は300デナリの価値のある香油をイエスのために捧げたのですが、ユダは120デナリでイエスを売り渡してしまったのです。

 イエスのことばに、弟子たちもユダもことばを返します。弟子たちは「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い、ユダは「先生、まさか私ではないでしょう」と言いました。特にユダは、イエスが自分についてすべて知っておられることに気づきながら、すぐ後に「まさか私ではないでしょう」と答えます。悔い改めヘの招きをかわしてしまう悲劇的応答です。


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