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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

命じられたとおりに

2013年12月25日 | クリスマス
マタイの福音書1章18-25節


 私たちの救い主イエス・キリストのご降誕を祝います。

 昨日午後、教会のメンバーのお母さまの洗礼式を行ないました。病を得て弱りゆく中、病床でひとり神に祈り心に平安を与えられたとのことです。クリスチャンの娘さんが筆談で聖書を伝えたところ、イエス・キリストの十字架による赦し、信仰によって賜る新しいいのちを信じていると伝えてくださいました。
 洗礼式の前に、「60年前に教会に行きましたが…」と話しておられました。いつか、いつかと思いながら60年経ってしまったという思いと、神さまの前にようやく立てるという安堵の思いが伝わる一言でした。

 クリスマスというと、どうしても救い主の母であるマリヤが強調されてしまいますが、ヨセフだって! と同性である私は強調してしまいます。
 きょうの通読箇所はヨセフが主の使いのことばを受ける箇所。ヨセフの信仰、従順に目を留めました。24節に、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」とあります。それは、20節での主の使いのことばどおりにしたということです。さらに、25節に、「その子どもの名をイエスとつけた」とは、21節のとおりにしたということです。

 マリヤがはずかしめを受けないようにと心を砕くヨセフは、神のことばに従順な人です。「私一人ぐらい」とはよく使われるセリフ。むなしさや無力さを感じさせることばです。けれども、「私一人ぐらいは」と神のことばに従おう、となると、全く違った意味になるのを発見しました。
      


インマヌエル

2013年12月24日 | クリスマス
イザヤ書7章10-14節


 「銃弾提供は武器輸出三原則の例外扱いとの見解」というニュースがクリスマスイブに流れています。「例外扱い」がいつの間にか普通になっていくという怖さを覚えます。なぜか、サイモンとガーファンクルの「きよしこの夜―7時のニュース」という曲を思い起こしました。

 ユダのアハズ王は、アラムと北王国イスラエルが連合して自国を攻撃するとの知らせを聞いて動揺しました。「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」とイザヤ書7章2節にあります。その時、主はイザヤによって恐れてはならない、神を信ぜよと語ります。さらに、しるしを与えると言われました。

 のちに神の使いは、妊娠したマリヤを気づかい悩む婚約者ヨセフに現れて、700年以上も前に与えられた約束のことばを告げます(マタイ1章23節)。そして、イザヤの預言通りに処女から「インマヌエル」と名づけられる男の子が生まれたのです。

 「動揺するな、インマヌエルと名づけられるお方がいるではないか」とのメッセージを、きょういただきました。


すべての人のために

2013年12月23日 | クリスマス
ヘブル人への手紙2章9-15節


 日曜日午後、通っている教会でクリスマスのお祝いの会をしました。Img_1207
写真はみんなで持ち寄ったごちそうの一部。ブッシュ・ド・ノエルのそばに漬物が…。田舎風なところが気に入っています。

 ここ数日、「みことばの光」ではクリスマスをテーマに聖書を開くようになっています。
 万物の存在の目的であり、また原因であるお方、神であるイエス・キリストが私たちと同じように人となられた、そして死の苦しみを味わわれたということが、きょうの箇所で述べられています。
 
 「上から目線」ということばがよく使われます。どんなに立派なことや正しいことを言っても、相手を見下すような接し方をされたら、たちまち心を閉ざしてしまいます。
 クリスマスの時期こそ福音がすべての人々に届けられる好機だといつも思うのですが、主人公なしのクリスマスにどうしても流れてしまいます。「聞く耳を持たない人々だ」とそれこそ「上から目線」で断じてしまうのは簡単ですが、原因はむしろこちら側にあるのではないかと近ごろ考えます。
 福音を伝えようとすることに力点を置くあまり、伝える相手と同じところに立ち、耳を傾けることを案外おろそかにしているのではないだろうかと反省します。

 「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれた」とあります。すべての人の中に私がいて、あなたがいて、あの人がいるといます。昨日バプテスマを受けられた方が、「イエスさまは私のために死んでくださったのだと知って、涙が止まらなかった」と話しておられたのが心に響いています。
     


いる場所がなかった

2012年12月25日 | クリスマス
ルカの福音書2章1-21節


 クリスマスの喜びがひとりでも多くの人々に満ちますように…。

 クリスマスイブの夕方、キャロリングに出かけました。障がいのある人たちの支援施設でお菓子を週に一度売らせてもらっている本屋さんの店先で讃美歌を5曲歌いました。交差点で停まった自動車の窓を開けて聞いてくださった方、ありがとうございました。
 その後は、市内の高齢者施設を訪ねて、施設内の三つの場所で3曲ずつ讃美歌を歌いました。キャロリングメンバーのほとんどは障がいのある人たちですが、去年に較べてみんなの賛美が格段に進歩しているのが、いっしょに歌っていてわかりました。終わった後、「上手になりましたね」とおほめのことばを頂き、さらに一人一人にお菓子をいただき戻って来ました。
 いっしょに歌っていると、時々調子外れの声も聞こえてくるのですが、いっしょうけんめい心を込めて歌っている様子は、聞いてくださる方にも伝わっていたようです。

 マリヤもヨセフも、「権力者の意のままに動かされる小さな駒のようなものだった」と「みことばの光」が書いています。ベツレヘムに着いてはみたものの、今度は泊まる場所がありません。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
 「フーッ」と何度もため息が出てくるような体験です。私なら、振り回されている、もてあそばれているような不満がふつふつと湧いてきそうです。

 二人がどんな思いを抱いたのか、聖書は伝えてはいませんが、マリヤが「おことばどおりこの身になりますように」(ルカの福音書1章38節)と受け止めたこと、ヨセフが「主の使いに命じられたとおりにし」(マタイの福音書1章24節)たことに、誠実に歩もうとする姿が浮かんできます。

 自分の思い通りにならない体験を重ねる中で、実はそれは、神のおことばがこの身になる一歩一歩なのだと受け止める…、これが信仰者の歩みなのだと思います。その歩みのすべてに救い主が共におられるから、感謝です。  

    
    


ほめたたえよ

2012年12月24日 | クリスマス
ルカの福音書1章67-80節


 待降節第四主日のきのう、教会では3名の方の洗礼式がありました。
 いずれも、すでにクリスチャンになっている人から誘われ、祈られて、この日に至りました。ある方は、聖書を読め、イエスさまのことをきける環境に置かれてから50年たっての洗礼でした。

 午後はクリスマスのお祝いの会。たくさんの子どもたちとご家族とが参加して、にぎやかな会となりました。子どもたちによる聖誕劇(イエスがお生まれになった出来事をもとにした劇)を見、持ち寄られたたくさんのごちそうを食べ、音楽の贈り物を楽しみ、クリスマスの話を聞きました。

 話の中で、「この話は聖書に書いてあるので、読みたい人は聖書を差し上げます」と申しましたら、帰りに5名の子どもたちがお母さんといっしょに「聖書をください」と言って、聖書をもらって帰りました。うれしかったです。

 この箇所で心に留めたのは、再び話せるようになったザカリヤの口から最初に出て来たのは、神への賛美だったということです。聖霊に満たされたザカリヤは、「ほめたたえよ」と救いの神を賛美します。

 9月に生まれた孫は、もちろんまだ話ができません。来年の今頃は、どのことばを先に話すか、「ママ」が先か「パパ」が先かなどが話題になることでしょう。赤ちゃんの口から最初に出るのが神への賛美であったら、どんなにか素晴らしいことかと思います。けれども、そうではありません。人はダビデの家に立てられた「救いの角」であるイエス・キリストを信じて、初めて神への賛美を口にするのだからです。

 今日は「クリスマスイブ」。多くの教会では夜に「燭火礼拝」(燭火礼拝)を持つことでしょう。クリスマスの主であるお方ゆえに、賛美の口を賜った者として、心から神をほめたたえたいと思います。

 
   


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