マタイの福音書1章18-25節
私たちの救い主イエス・キリストのご降誕を祝います。
昨日午後、教会のメンバーのお母さまの洗礼式を行ないました。病を得て弱りゆく中、病床でひとり神に祈り心に平安を与えられたとのことです。クリスチャンの娘さんが筆談で聖書を伝えたところ、イエス・キリストの十字架による赦し、信仰によって賜る新しいいのちを信じていると伝えてくださいました。
洗礼式の前に、「60年前に教会に行きましたが…」と話しておられました。いつか、いつかと思いながら60年経ってしまったという思いと、神さまの前にようやく立てるという安堵の思いが伝わる一言でした。
クリスマスというと、どうしても救い主の母であるマリヤが強調されてしまいますが、ヨセフだって! と同性である私は強調してしまいます。
きょうの通読箇所はヨセフが主の使いのことばを受ける箇所。ヨセフの信仰、従順に目を留めました。24節に、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」とあります。それは、20節での主の使いのことばどおりにしたということです。さらに、25節に、「その子どもの名をイエスとつけた」とは、21節のとおりにしたということです。
マリヤがはずかしめを受けないようにと心を砕くヨセフは、神のことばに従順な人です。「私一人ぐらい」とはよく使われるセリフ。むなしさや無力さを感じさせることばです。けれども、「私一人ぐらいは」と神のことばに従おう、となると、全く違った意味になるのを発見しました。
私たちの救い主イエス・キリストのご降誕を祝います。
昨日午後、教会のメンバーのお母さまの洗礼式を行ないました。病を得て弱りゆく中、病床でひとり神に祈り心に平安を与えられたとのことです。クリスチャンの娘さんが筆談で聖書を伝えたところ、イエス・キリストの十字架による赦し、信仰によって賜る新しいいのちを信じていると伝えてくださいました。
洗礼式の前に、「60年前に教会に行きましたが…」と話しておられました。いつか、いつかと思いながら60年経ってしまったという思いと、神さまの前にようやく立てるという安堵の思いが伝わる一言でした。
クリスマスというと、どうしても救い主の母であるマリヤが強調されてしまいますが、ヨセフだって! と同性である私は強調してしまいます。
きょうの通読箇所はヨセフが主の使いのことばを受ける箇所。ヨセフの信仰、従順に目を留めました。24節に、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」とあります。それは、20節での主の使いのことばどおりにしたということです。さらに、25節に、「その子どもの名をイエスとつけた」とは、21節のとおりにしたということです。
マリヤがはずかしめを受けないようにと心を砕くヨセフは、神のことばに従順な人です。「私一人ぐらい」とはよく使われるセリフ。むなしさや無力さを感じさせることばです。けれども、「私一人ぐらいは」と神のことばに従おう、となると、全く違った意味になるのを発見しました。