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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

救い主が生まれた

2018年12月25日 | クリスマス

ルカの福音書 2章1−21節

 きょうはクリスマス。日本では25日はすでにクリスマスが終わったようなところがありますが、当地ではきょうと明日がクリスマス祝日で休みです。

 きのうの夕方は中心部にある教会の「賛美礼拝」に出席しました。普段は日曜礼拝ににどのくらいの方が集っているのかはわかりませんが、きのうは満席。立っている人もいるほどでした。ルカの福音書2章1−20節が何回かに分けて読まれ、その間に讃美し、牧師の説教がありました。終了後少し町歩きをしましたが、ほんの一部のカフェを除くと、ほとんどは休み。人の少ない大通りに、ショーウィンドウが明るく輝いていました。

 ここには、救い主がこの世界にどのようにおいでになったのかが詳しく記されています。天地の創造者、支配者、主であるお方が、時の権力者の命令に振り回されるように旅をし(胎内で)、旅先で誕生し、滞在先も確かではなく、布にくるまれて寝かせられたのは飼葉桶。まったくありえない現れ方です。

 「彼(キリスト)がまず地の低い所に下られた」というエペソ人への手紙4章9節のことばを覚えます。

 だれも、貧しさや弱さを求めてはいないことですが、その現実と向き合わなければならないことが少なくありません。神を信じているのになぜ…、と問うようなこともあります。けれどもそのような時こそ、私たちの救い主がどのようにおいでになったのかが大きな慰めになり、生き続ける希望になるのです。

 私たちの救い主、イエス・キリストのご降誕を心からお祝いします。


ほむべきかな

2018年12月24日 | クリスマス

ルカの福音書 1章67-80節

 日曜日の午前は、市内の老人ホームの敷地内にある国教会の礼拝に参加しました。そこに、すてきなクリッペ(飼いばおけを中心とした降誕のオブジェ)がありました。一つひとつが南ドイツ、オーバー・アマガウで作られた木彫りのものです。きょうから数日、左から右へと写真で紹介します。「クリスマス・スペシャル」です。

 ルターはザカリヤについて、「不信仰が沈黙せしめた人を、聖霊が預言者へと変える」と語ったそうです。妻エリサベツに男の子が生まれるという御告げを信じなかったために閉ざされた口が開かれて、ザカリヤは最初に神をほめたたえました。そして、「ほむべきかな」と始まる神への賛美、わが子の歩みについての預言がザカリヤの賛歌(ベネディクトゥス)です。

 この賛歌から「あわれみ」ということばを心に留めました。神がご自分がお選びになった民を見捨てることなく、お救いになったのは神のあわれみによるのだとザカリヤは歌います。きのうは礼拝で、この前にある57-66節から「神がなさる不思議」というテーマでみことばを届けさせていただきました。

 私たちの思いをはるかに超えて、神がなさる救いのお働きは不思議というほかありません。ザカリヤは個人として神の不思議を経験しました。長い間の沈黙の中で彼は、神との豊かな交わりに導かれ、声には出すことがなくても神との対話を重ねていったのです。

 曙の光として、暗闇と死の影に住んでいた者たちを照らしてくださろうと、神が人となっておいでになったという不思議を心に留め、「ほむべきかな」と声を上げます。


預言の成就

2017年12月25日 | クリスマス

マタイの福音書 2章13−23節

 救い主のご降誕を心からお祝い申し上げます。

 日本では25日の午後からは、いやその前から、正月を迎える準備に切り替わりますが、当地ではきょうと明日がクリスマス祝日。スーパーも、デパートもお店も休みです。きのうの礼拝からの帰りカーラジオで聴いた公共放送では、クリスマスイブ(「聖なる夕べ」と呼びます)の礼拝の模様を中継していました。

 イエスの降誕を演じる聖誕劇では、羊飼いがみどりごイエスを拝みに来た後すぐに、博士たちが黄金、乳香、没薬(もつやく)を持って登場するという筋書きが多いのですが、博士たちが来たのは、イエスが2歳近くになってからではないかと、17節の記述をもとに言われています。

 ここに出てくるヘロデはいわゆる「ヘロデ大王」のこと。彼は紀元前37年から4年までローマの後ろ盾でユダヤの王として在位していました。大変猜疑心の強い王で、王位末期には王位を奪われないようにと妻や子どもたちを殺し、最後は不信と病苦にさいなまされつつ死んだとされています。イエス誕生の知らせに敏感に反応するのも、このような背景ゆえだったと考えられます。

 救い主は、このような時代のうねりの中でひねり潰されそうな存在としておいでになります。けれども、それらをくぐり抜けて十字架へと向かっていかれます。「みことばの光」は、この箇所で繰り返される「成就」ということばに注目します。神は、どれほど私たちを愛しておられるのでしょうか。

 「万軍主の熱心がこれを成し遂げる」というイザヤの預言が響いてきます。


光について証しする

2016年12月24日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章6−13節

 きのうはクリスマスのための買い物をしました。24日の午後2時(お店によります)から26日いっぱい、スーパーなどのお店は休みになってしまうのです。そのためか、広い駐車場もびっしりと車が…。日本でもそうですが、レジ前にちょっと手を出してカゴに入れそうな商品が置いてあります。しばらく並んでいる間に、観察をしてみましたら、なるほど、身近にあるので手を出して購入する方が結構いるのだということを発見。客の心理をつかんでの陳列なのだなと、改めて思いました。

 きょうの箇所には、「すべての人を照らすまことの光」なるイエス・キリストを迎えた人々のことが描かれています。バプテスマのヨハネはこのお方を来たるべきメシヤであると指し示しました。けれども、世はこの方がメシヤであると悟ることなく、ご自分の民であるイスラエルは受け入れませんでした。けれども、この方を「まことの光」だと受け入れた人々には、想像をはるかに超えた贈り物が与えられたのです。

 日本ではこの時期、「年末ジャンボ」宝くじが話題になります。23日で発売は終わったようですが、一等前後賞併せて10億円が当選とのこと。買ったことはないのですが、当たったらどうしようとあれこれ想像してしまうような金額ですね。けれども、12節にある約束は金銭云々では決して比較できないものですが、貴い価値のあるものだということに気づかされます。

 もうすぐ2016年が終わろうとしています。辛い出来事があまりにも多かったという思いがします。今こそ、この方を受け入れた者たちは、クリスマス市(いち)や家々のイルミネーションをではなくて、「すべての人を照らすまことの光」を、愛することによって指し示せという促しをおぼえます。


光はやみの中に輝いている

2016年12月23日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章1−5節

 大型トラックによるテロで、たくさんの方が死傷したベルリンのクリスマス市(いち)が、再度開かれていると報じられています。中心街のクリスマス市では、事件以後には警察官の数が多くなったようです。恐れず、ひるまずに生きていくのが、暴力に対する姿勢であると、覚えました。きのうは冷たい雨の中、用事があって町歩きをしましたが、30分のオルガンコンサートを聴いて身体も心もあたたまりました。

 「みことばの光」はきょうから三日間、ヨハネの福音書1章を読みます。その前のページに「まことの光が世に」という記事が掲載されています。「いつしか、人混みの中に出る時には、緊張し身構えている自分がいる。世界は深い闇の中に落ち込んでしまったのでは、と思う」と言う文章は、私が記したものです。私たちをお造りになった神を知ろうとしない世界は、今になって深い闇の中に落ち込んでしまったのではなくて、ずっとそうだったのです。

 イエスの弟子の一人ヨハネは、イエスを「ことば」、「いのち」、「光」ということばで紹介しました。闇の中でこそ光は輝きます。イザヤが「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」が預言したお方が、確かにこの世界においでになったことを、クリスマス市の一つ一つの光を見ながら、神からのメッセージとして受け止め、このお方にしか私たちの望みがないのだと証しするものでありたいと願うのです。


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