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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

おことばどおり

2012年12月22日 | クリスマス
ルカの福音書1章26-38節


 この箇所はいわゆる「受胎告知」として知られ、多くの芸術家が作品に表しています。
 
 美術伝道を進めている方が、フラ・アンジェリコの「受胎告知」という作品を解説したのを思い出しました。Photo
 その中からいくつか…。
 この絵は、御使いが最初にマリヤに語ったときではなくて、「おとこばどおりこの身になりますように」と神の計画を受け入れたときの姿を表しているのだそうです。
 また、腰をかがめ両手を重ねているマリヤの姿勢には、相手を敬い、同意するという意味があるとも説明していました。
 「なるほど!」とうなずけますと、さらに作品への親しみが湧いてきます。

 マリヤが「おことばどおりこの身になりますように」と受け入れたのは、それを受け入れたら自分がしあわせになるとか、もっとよい生活ができるとかいう展望を持っていたからではありません。
 御使いによって告げられた神の計画が「この身になる」ことで、自分に何が待ち構えているのかということについて、彼女に見通せていたとは思えません。

 「みことばの光」には、「マリヤがイエスの母となるのを受け入れたということは、それに伴う、喜び、悲しみ、辛さ、孤独など、これから彼女が通るであろうすべてを受け入れるということであった」とあります。

 先が見通せなくても、神が命じ、約束しておられるならば「おことばどおり」と信じる。これが、マリヤの信仰から教えられることです。



ただ、神によって生まれた

2011年12月24日 | クリスマス
ヨハネの福音書1章6-13節


 今朝の新聞土曜日版に、クリスマスケーキを作っている昭和30年代のモノクロ写真が掲載されていました。それを見たら、あまりおいしくない(今に比べたらですが…)バタークリームのクリスマスケーキの味を思い出してしまいました。「おいしくなかったね」というのは、妻にも共通の思い出のようです。
 でも不思議。どうしてクリスマスには丸くて白いデコレーションケーキなのでしょうか。もっとも子どもの頃は苺など乗っかっていませんで、砂糖でできたバラの花のようなものとローソクで飾られていました。
 歳をとって回顧性が増しているようです。

 「すべての人を照すそのまことの光」が世に来ようとしていた。「何とありがたいことだろう。それならば世を挙げて『そのまことの光』を歓迎しよう!」ということになるはずですが、そうはならなかったというのです。
 「世はこの方を知らなかった」は悲しいけれども、なお今の時代のクリスマスを物語っているように思います。
 大切な人と二人きりでとか、サンタは来たかな? とか、ケーキは用意したというのと同時に、いやそれよりも前に、主人公である「そのまことの光」を迎えることができたら、それぞれのクリスマスがどんなにか温かなものとなることでしょうか。
 「ただ、神によって生まれ」るというすばらしい約束が、一人一人のものとなるように…。



 


光はやみの中に輝いている

2011年12月23日 | クリスマス
ヨハネの福音書1章1-5節


 早朝のウォーキング。今朝は寒かった! です。6時少し過ぎに家を出て45分ぐらい早足で歩いて戻って来ます。この時期、当地の日の出時刻は6時50分。ですから、出かける時にはまだ暗いのです。
 線路脇の自治会館のほとんど葉を落としている大木を、オレンジ色の街灯が照していました。そのシルエットのような光景に、立ち止まって見入っていました。光が見せてくれる瞬間の芸術だと思いました。

 ヨハネの福音書冒頭の「光」は、瞬間の芸術ではありません。「みことばの光」にあるように、初めにあるお方、すべてのものを造られた創造主、いのちがあるお方、それゆえにこのお方のいのちは罪と死のやみの中で苦しんでいる人々にとっての光となって、輝き続けているというのです。

 あちこちで、2011年を振り返ってのコメントや文章が見られる頃です。
 この国に住む私たちは、大きな災害を被った年だったと永く記憶にとどめるでしょう。なかでも、放射能汚染の問題は、1年や2年で解決することではなくて、次の、いやその次の世代に重荷を積み残すようなものです。
 先日首相は、原発が「冷温停止」したと収束宣言をしました。それに対して、福島県知事は「収束していない」と反論しました。そうだと思います。人々の心のやみは深く暗いと、先週福島を訪ねて改めて思いました。

 改めて、私たちが明るいだとか、元気だとかいうことは、とてももろい土台の上にあるのだということを気づかせられた年だったと思うのですね。
 だれにでも、やみの中に輝いている、輝き続けている光なるお方が必要なのです。




 


光は灯っているか

2011年12月22日 | クリスマス
イザヤ書9章1-7節


 「みことばの光」に「クリスマスを迎える」(50-53ページ)という記事を書いた時は9月。
 家の近くの「名所」も、クリスマスの頃にはきっとたくさんのイルミネーションで飾られるのだろうと考えて書いたのですが、予想は見事に裏切られました。
 このお家、今年はイルミネーション「ゼロ」なのです。

 このお家の家族会議の模様を、勝手に想像してしまいました。
 「今年は3月11日に大変なことがあったな。ちょっとでも電気を節約したほうがいいと思わないか。」
 「そうねぇ。クリスマスの気分でもないわね。」
 「でも、みんなは楽しみに待っていてくれるんじゃないの。」
 「そうよ。近所の教会の牧師さんもいつか、〈ありがとうございます。クリスマスを祝ってくれて〉と言っていたじゃないの。」
 「うーん。悩むところだな。でも、お父さんは決めた! 今年はイルミネーション「ゼロ」だ。そのかわり、クリスマスイブには、あの教会のキャンドルサービスに行くことにしよう。」
 「実を言うとね、お父さん。電気代も大変だし。みんなの期待が重荷になっていたところなのよ。」
 「教会でもクリスマスをやっているみたいだから、今年は顔を出してみようよ。」
  そして、12月24日の夜、このご家族は揃って教会の燭火礼拝でクリスマスキャロルをうたっていました。…

 以上はまったく創作なのですが、そんなふうな会話があったら素敵だな、と思うのです。

 「大きな光」としておいでになった神の御子イエス・キリストのご降誕をお祝いします。
 私の心に、この光は灯っているでしょうか。





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