COP15は迷走したあげく、「国際協調の可能性」だけ取り繕って終了した。
地球規模の問題を、国家単位の国際協力の枠組みで解決することの、無理と矛盾がはっきり見えただけだった。
産業革命後の近代国家の枠組みがもう機能しなくなった。
技術革新により宇宙から地球を観たことが、世界の人々の地球観を変えたのだとすれば、産革パラダイムはその使命を果たし終えたことになる。
地球を考えない、どん欲な共食いのシステムとして近代国家があったわけだが、相次ぐ大異変が神の裁きを告げている。
濁った水槽のピラニアは一度、全部放り出さなければ、水槽の大掃除ができない。
国家や民族という「くくり」で、地球を支配する時代は終わっている。
終わっているが、滅んではいない。生き物は死んでも、死体が滅ぶまでには「おぞましい時間」が必要なのだ。
「おまえはもう死んでいる」と言われても、解らないのが死体だ。
世の中の、ほとんどすべての仕組みが産革パラダイムの構成要素であり、われわれ自身も、どっぷり産革パラダイムの思考の中で生きている。
学校、就職、恋愛、結婚、医療、葬式、国家・・・人生すべての構成要素が、大量生産、大量消費に向けられ、その必要アイテムを一つづつ手に入れながら、産革パラダイムのために生きている。
あるいはそれが手に入らないと悩み、終いには、それ故に自殺する人さえ生まれる。
こうした生きていくうえで「当たり前のこと」を、一度、白紙にして、白紙の出発点から考えなければ、地球環境の沈静化というゴールは見えない。
国家や、国家の代表という、産革パラダイムの優等生に、反産革パラダイムの答えをだせというのは、
国会議員に、議員数を50人に減らして、ボランティアだけの国会議員にする決議をさせるようなものだ。
泥棒の警察に泥棒は捕まえられない(無くもないが)。
国家という、産革パラダイムの構成員に、温暖化は止められない。
産革パラダイムが、断末魔にもがきながら死ぬのを待つより、
新しい時代を担う生命で、世代交代をする方が、新しいパラダイムは早く来る。
次の世代を担うものは、国家から離れる必要がある。
NGOなどの、まったく国益から離れたベクトルが動き始めているが、金融マネーという黒NGOは、既に地球規模で暴れ回っている。