魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

旧弊

2009年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

気が付けば、今日が去年になるまでに、後三日しかない。
ミレニアムを口実に、年賀状を止めてから10年になる。
賀状を書いていた時代と比較して、この10年は何と明るく、さばさばと新年を迎えていることだろう。

当然、初詣にも行かなければ、おせちも食べない。
日本の文化伝統は大切にしたいと思うが、止めるべきだと思うことや、変わっても仕方がないと思うことも多い。

日本が日本たるゆえんは文化だが、文化は形式によって保たれる面と、文化によって形式が生まれる面がある。
逆に、形式によって文化が沈滞することもある。

文化は人間の営みそのものだから、営みの生命力こそが本体であり、その生命力を維持するためには、時折、形式を脱皮しなければならない。

文化伝統を守ると言うと、ほとんどの人が、旧態を維持することだと考えるが、古い仕来りは、古い時代に当たり前だったことが、そのままの形で残っているものであり、環境が変われば、維持でき無くなるものや、むしろ別な形に変えた方がよいものもある。

鯛やアワビを神前に供えるのは、古代より海の恵みに感謝するものではあるが、もし、自然環境が変わって、鯛もアワビも輸入するものになったら、輸入してまでも供える必要もなく、むしろ、そうしてはいけない。

日本語の乱れとか、うるさい向きもあるが、一体、いつの時代の日本語のことを言っているのだろう。仮に標準語のことを言っているのだとすれば、標準語は、いかに乱れた、むちゃくちゃな言葉として生まれたか、解っているのだろうか。

言葉は文化であり、変遷していく生命力こそが文化であるはずだ。
自然崇拝としての神社は敬愛しているが、靖国神社は不可解だ。
標準語、靖国神社、年賀状・・・みな、明治以降の環境と必要から生まれたものだ。

それを大切に思う人に、異を唱えるつもりは毛頭無い。
ただ、それを理由に、他人を非難することだけはご勘弁願いたい。
ポケベルはもう要らない

年の初め近頃の正月