魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

中国ワイン

2009年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

中国では、成金のお定まりワインブームで、世界のワイン老舗産地は喜んでいるだろう。しかし、中国のことだから、ここでも素早くワイン生産が大々的に始まっているそうだ。
広大な土地にはどんな環境でもあるから、中国産梅干しや中国産椎茸のような「上物」が現れる日も近い。

酒は飲まないが、飲めないわけでもない。
知る限り、酒は、やはりワインが一番うまいと思う。
しかし、うんちくを傾けるほどの興味も知識もない。
酒飲みの楽しみの一つは、飲みながら、あれこれと、酒や料理について語ることのようだ。

今飲んでいる酒が美味ければ、それで良いというものではない。
味わいを、さらに広げるために、古今東西の銘酒や、酒への思いの数々を語りながら、何倍にも味わい尽くそうとする。
酒を語り、料理を語り、酒豪の話や、その飲みっぷりを語ることで、
酔いの極楽に酔いしれようとするもののようだ。

快楽というものは、欲深いもので、自身で制御し止まることができない。環境が許す限り破滅するまで際限なく求める。
「この辺で」と止めることはできるが、それでは、常に自制心がどこかで働いているわけで、本当の快楽ではない。
だから、酒は「酔いつぶれるまで」呑むのが、本来の姿だ。

禁酒教ワイン教
酒に強い遺伝子を持つ欧米人は、酔いつぶれることを非文明的だと思っているようだが、本音は、酔いつぶれることも人間性の一つだと思っているようだ。映画に現れる酔っぱらいは、おバカでも、悪いヤツとしては描かれていない。

アメリカの禁酒法も、キリスト教の偽善が高じたものだが、イスラム教と比べればうんと寛容だ。しかし近頃は、タバコの、次の標的になっている。タバコ撲滅も禁酒運動も、すぐ極端な動きに変わる、アメリカの人工趣味と宗教心のアンバランスな文化の表れだ。

アメリカをバカにするヨーロッパも、結局、影響されていく。若者のファッションを、年寄りがいつの間にかまねるようなものだ。
日本に至っては、いまだに蘭学の末裔が生きているのか、骨の髄までアメリカに洗脳されているのか、先を競ってアメリカの流行を持ち込み、常識や正義のように社会に流布する。

タバコはもはや絶滅寸前だが、この分だと酒も危ない。
自分がやらないからと言って、酒やたばこを禁止しろと言うのは宗教だ。
身体に悪いというデータならいくらでも出てくるだろう。どんな現象にも裏表はある。言いがかりを常識に変える現代の権威は科学だ。
科学にも裏表はある。解りやすい白黒より、アバウトなのが人間だ。

ワインと言えば、昔、フランスの田舎駅で、水を欲しがる3歳ぐらいの子供に、母親がワインを取り出して飲ませていた。

ワインワインと、中国や日本のグルメやマニアが熱狂する世界とはまったく違う、生活としてワインのある世界でこそ、ワインは語れるものではなかろうか。