魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

東洋の現実感(1)

2009年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

中国人のブログに、何で日本人は「イングリッシュネーム」を使わないんだろう?と言う疑問が書かれているそうで、かなり笑った。

確かに、昔。カナダで香港人が英語名を名乗っていて、カナダ人に「本名か?」と聞かれ、「そうだ」と答えると「何で?」と聞かれ、「オヤジに聞いてくれ」と答えて、話が終わった。

韓国人は「李」を「LEE」と、得意そうに表記している。

文化を取り入れることと、文化に順応することは全く違う。
中国のブロガーも、英風名の方が外国の人がおぼえやすいのに、欧米化している日本人が使わないのは、征服された経験がないからだろうと言っているそうだ。

確かに、征服された経験がないことも一因だが、欧米人はイスラムにもモンゴルにも征服されているが、進んで征服者の名前を付けようとはしなかったようだ。

昔、移民や留学で海外に出かけていった日本人が、現地でニックネームで呼ばれたことは少なくないが、明らかに欧米人の、驕りと異文化に対する蔑視で、
「ややこしい!憶えにくい名前だからジョーにしろ」と言ったイキサツで呼ばれるようになり、、屈辱的だったという。

しかし、郷にいれば郷に従い、多くの人は受け入れ、むしろ、そのことによって親近感を持ち、共同体で認められることも多かった。
だから、常に征服され支配を受けてきた中国人が、むしろ積極的に異文化に順応しようとするのは、一つの生命力かも知れない。

女性的現実感
中韓のパクリ商品は、名前と同じで、そのまま真似る。
猿まねと言われた日本は、必ず手を加え改良し、別なものにまで進化させた。
欧米の文化も、日本と同じで、情報として仕入れた技術を磨き上げている。羅針盤、火薬、印刷技術から科学まで、中国の発明品もイスラムの化学も、欧米で近代技術に進化した。

自分たちの精神性にこだわる文化は、他者に成り切ることは出来ない。だから、物を見れば、自分たちなりの方法論で作ろうとする。物作りは、物をつくるのが目的ではなく、アイデンティティーの確認のために物をつくる。
「自分ならこう作る」と・・・

逆に思われているが、農耕文化の東洋は精神主義より現実主義だ。
人間の精神より、自然の現実に従う。農耕はどんなに人間の意志が強くても天候には勝てない。
名前やアイデンティティーより、いかに実を取るかが重要だ。

これは女性的な生命力であって、牧畜民の男性的意志の逆であり、
だからこそ、東洋の学問は現実解決の手段とはならず観念的となり、むしろそれが、東洋の哲学、宗教、学問の、精神性の奥深さになっている。

温暖で侵略もうけず、恵まれた環境で生まれた日本文化は、現実対応に迫られなかったから、牧畜文化とは逆の過程で精神性が育った。
それが、結果的に欧米と同じアイデンティティー重視であり、
実のために、名も体も偽るようなことが出来ない文化となっているのではあるまいか。