魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

大相撲

2010年06月17日 | 大転換

No.933

相撲界の相次ぐ不祥事が騒がしい。
相撲は魚座だから、当然、今のような問題が起こるわけだが、
これも大転換の一つではないかと思う。

相撲に関する大前提から考え直す必要がある。
当然のこととされている、「国技」だが、確かに、日本書紀にも出てくる「相撲」そのものは、日本の伝統スポーツかも知れないが、「大相撲」という「興行」は江戸時代から始まったものであり、
江戸相撲という、現在につながる形が固まったのは、これまた、やはり、ワットの蒸気機関と同じ時代だ。

興業としての大相撲は、様々な近代スポ-ツと同様に、産業革命パラダイムの中にあったものと言えそうだ。
サッカーにしても、オリンピックにしても、現在、興業としての問題が山積し、派手さの裏に、実は破綻の危機を含んでいる。

産革パラダイムの、スポーツ興業は、ルールや演出を整えて、金儲けシステムとして機能するのであって、オリンピック精神とか、神事とかは、実は、体の良い「演出」にすぎない。
相撲に到っては、「神聖」な土俵上で、現金を「ごっつあんです」と受け取っていく。

こういうショービジネスに、国が事実上の「国技」というお墨付きを与え、バックアップし、誰も不思議に思わないところが、まさに、産革パラダイムの現象なのだ。パラダイムの中にいる「時代の人々」は、パラダイムによる現象に疑問を持てない。
「神聖な国技」を前提に議論するから、どこまでも不毛なのだ。

相撲の問題は、興業ビジネスを国技とすることを止めて、神聖な神事と、スポーツビジネスの間に一線を画すことだ。
そのことにより、日本文化の神道は守られ、相撲プロレスは国際スポーツの可能性を開花する。