魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

特殊性

2010年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

No.920

よく、外国人が「日本語は最後まで聞かなければ、意志がわからないから、ややこしい」と嘆く。
長々としゃべった後に「・・・とは思わない。」とか、「・・・かも知れない」とか付けば、話が一気に逆転する。

これは、日本語の用心深さ、日本社会で生きる上での窮屈さの結果だ。
封建的な閉塞社会が長く続いたので、そういう言い回しが生まれたのだろう。
閉塞社会の総本山とも言える、京都弁は、その言葉尻の危険回避だけではすまなくて、初めから、いかなる「言質」も取られない間接拒否で話される。それが、京都人の意地の悪さと受け止められる。

「できません」と言えない場合。普通なら、「考えておきます」だが、京都なら、「ああ、それやったら、OOさんなら上手にしはりますえ」などと、とりあえず他人に振る。
京都までとは行かないが、うかつなことの言えない、閉塞社会は、極限まで本音を言わない日本語を生んだ。

世界の言葉の多くが、結論から入るから、日本語を知った外国人は面食らう。
何なんだ、この言葉は。何なんだ、日本人は・・・と、大抵は、イラつき、バカにする。

しかし、日本文化の特殊性は、この「用心深さ」「注意深さ」から来ている。
主体性のなさ、リーダーシップの欠如、わかりにくさ・・・など、短所も多いが、工業製品の品質の高さや、芸術の繊細さは、日本語と一体となって生まれてきた。

最後まで聞く
日本語を聞こうと思えば、「耐えに耐えて、最後まで」聞かなければならない。そして、その言葉を理解しながら、それが最後にどういう結論に向かうのかも、脳裏で考えながら聞く。

閉塞社会と相関関係とも言えるのだが、一つには、仏教文化の「他人の話に耳を傾ける」教えも生きている。
拝聴する文化背景があるから、最後まで聞いてもらえることを前提に日本語が形作られてきた。

話し始めたとたんに、敵味方や善し悪しが分かるような、言語思考ではない。物事の多様性を、深く極めようとする日本語の思考は、インテリジェンスを高くする。

その背景から生まれた、日本の美術や工芸品の視覚的特異性を認められていた時代から、映画やアニメ、マンガや小説にまで広がってきた。
翻訳して理解されることは、部分的には曲解となるが、全体を通せば、やはり、哲学や情緒の理解になる。

世界に日本文化が広がることは、金儲けでも思想征服でもない。
閉塞化していく地球社会の、ニーズに応えているからだろう。

ところで、昔、ケンブリッジから日本に長期留学していた人は、日本でもてすぎた武勇伝を語った後、
「日本語は、極めて合理的で論理的な言葉だ」と、力説をしていた。