魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

岡目八目

2010年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

No.939

ワールドカップが始まると、日本中が、にわかファンや評論家になる。
勝手なことを言う素人評論家に、プロは「素人にはわからない」と思うだろうが、必ずしもそうではない。
どんなことでも、当事者より、関係のない第三者の方がよく解ることがある。

名選手、名監督ならずともいう。
自分の思い通りに動けなかった人や、不運な挫折を繰り返した人は、成功と失敗の「間にあるもの」を良く知っている。

ことごとく努力が実った名選手にくらべ、結果を出せなかった人は、なぜ、うまくいかないのかを考え続けている。
どんなチームでも、基本は、天才選手ではない、凡庸な集団だ。
その凡庸集団を、いかにすれば使えるかと考えられるのは、自分自身が凡庸で苦労した人だ。もと天才選手は、みなを天才にしようとしてしまう。あるいは天才を集めようとする。

野球で言えば、往年の天才選手で監督になった、長島、王、野村は、三人三様のスタイルで面白い。
長島と王は、天才スターだから、最初は皆が天才であることを望んだが、誰も自分のようにはできないと気づくと、長島は天才集めをし、投手から打者へと苦労した王は、自分が変わることを選んだ。
また、捕手から現役監督を経験した野村は、始めから、選手の心理を読む能力を身につけていたので、監督のプロとなった。

野村は「自動車人間」では「シャーシs」だが、高度な分析ではほとんどがハンドルと言っていい。ハンドルの理詰め能力を使って、シャーシの自己顕示のキャッチフレーズにしたのが、「ID野球」だ。
王、長島のために月見草にされたという、ネガティブな自慢も、ここから来ている。(ハンドルの被害者論。シャーシの自己顕示)

この三人はそれぞれ名選手だったが、長島、王は、いきなり名監督にはなれなかった。

監督采配のウエイトが大きい野球と比べれば、サッカーの方が体験より大局観が必要なような気がする。つまり、より、戦場に近い。
宮本武蔵が天草の乱で手柄を挙げることはできなかったし、三方原で失禁した家康でも、後に野戦の知将といわれた。

「経験のないヤツにはわからない」と思うのも大きな間違いだ。
よく「人を殺さなければ殺人の小説は書けないか」と言われるが、まったくそんなことはない。
先日、イギリスで「切り裂きジャック」を研究していた男が、本当に同様の殺人をした。
徒然草で、狂人のまねだと言って裸で走れば、それを狂人と呼ぶという話があるが、まさに、単なる殺人鬼にすぎない。
調教師が馬だったとは聞いたことがない。

人の相談に乗る人も、決してその人にはなれない。だからこそ、当人が気づかない、解決策が見えてくる。
かと言って、他人のことはよく見えても、自分のことは気づかないものだ。
だから、人生の名選手より、凡庸な選手が案外良いことを言う。
迷ったら、優等生より落第生に聴く方が、ヒントになるかも知れない。
もちろん、自分自身で考えることが前提だが