魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

少年の心

2010年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

No.943

昔、あんなことを言っていたのに、今はこんなことを言っている。という、マスコミ得意の非難パターンがある。
去年言ったことと、今年言ったことが違う人は、確かに信頼できない。
しかし、人間は成長する。

20年前に言ったことと、今言うことが違うからと言って、非難することはできないと思う。
20年前に言ったことを非難するマインドこそ、失敗を許さない日本社会の閉塞性であり、それが、あらゆる成長の可能性を摘んでいる。

大学受験で一生が決まる社会の、問題が指摘されているが、未だに、官僚は死なず、お笑いまで高学歴がはびこり、学歴を競うクイズ番組が喜ばれている。

人の能力は、人それぞれの適齢期がある。
10代に勉強もせず不良と言われた人が、突如、目覚めて勉強を始め、30代で難関資格を突破したり、一流大学を卒業しても、それが人生最大の功績で、後は、何もできないボンクラで終わる人もいる。

受験で発揮した事務処理能力だけで、組織のシステムに食い込むと、後は保身だけで、トコトン特権をしゃぶり尽くして、天下りなど当然と考えている。

一方、受験能力と実戦能力は、真反対ぐらい違う能力だが、実戦能力は非常時しか試す時がない。テストなどできない能力だ。

ナポレオンが劣等生だったことや、大石内蔵助が昼行灯と言われたことなど、非常時に強い劣等生の例は、枚挙にいとまがない。
しかし、日本のシステムは、大器晩成や眠れる獅子を若葉の時に徹底的に潰してしまう。だから、大物がいなくなった。
エジソンやアインシュタインの開花時期は、他の子供とはズレていた。

受験能力だけではない。人生観も価値観も思想も、それぞれ個人の、体験や努力や学習によって日々成長していくものだ。
真剣に生きている人ほど、考え方は変わり、発言も変わってくる。
若い時に過激な人ほど、歳とともに思想が変わりやすい、それだけ真剣に考えて来たと言うことだろう。

若い時に左翼にならないのも、年取って右翼にならないのもバカだ・・・と、女性作家が言って、どちらからも非難されていた。

今は、右翼左翼の時代ではないが、若い頃の考え方を大きく変えた年寄りは多いだろうし、逆に、時代環境の変化にもかかわらず、まったく変えていないとすれば、何も考えなかった人と言えるだろう。

思想や価値観が変わる人を非難すべきではないし、変わった自分を恥じるべきでもないと思う。あくまで、進歩であり、成長なのだ。

もちろん、心は少年の日のままであって欲しいものだが