魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

挨拶運動

2010年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

No.929

夕方、人通りのない土手の下を歩いていたら、向こうから、高校の野球部らしい二人が歩いてきた。

30メートルぐらい前で、突然、立ち止まり、こちらを見て並んで立っている。
『なんだろう?』と思いながら歩いて行くと、

「こんにちは!」と、威勢よく声を揃えて最敬礼をする。

『???』
「こんにちは」と返したものの、誰かと勘違いしているのだろうか?
それとも、学校か、クラブの「挨拶運動」だろうか?
それなら、「誰かと間違えてませんか?」と尋ねるのも野暮だし・・・
どうにも、中途半端な気分で、その場を後にした。

社交性がないので、誰彼かまわず「こんにちは」と声を掛けられない。
もちろん、挨拶されれば、必ず返すが、知らない人には声を掛けられない。
観光地などで、知らない者同士がする挨拶などは参加する。
しかし、中には「挨拶をしろ」と言わんばかりの大声で「こんにちはッ」と言う人がいて、挨拶は返すが、不愉快だ。挨拶をするルールがあるわけではない。互いの気持ちの問題のはずだ。

近頃は、地域の防犯のため、声掛けや挨拶が盛んに行われている。
初めての町を歩いていると、若い人によく挨拶される。
向こうから声を掛けられると、こちらも気持ちよく挨拶できるが、
もし、逆に、見かけない人が愛想良く「こんにちは」と挨拶すれば、地元の人は、『何だろう?』と思うだろう。
実際、そんな人がいたら、逆に何か危険な「魂胆」を感じるはずだ。
だから、挨拶運動は、やっぱり、地元の人から声を掛ける方が順当だと思う。

しかし、それにしても、野球部員は、最敬礼だったから、挨拶運動だとすれば、度が過ぎる。何だったんだろう。

田園地帯で、
集団登校をする小学生が、押しボタン信号で10人ぐらい並んで渡った。
渡り終えると、信号の下で、旗を持っていた上級生が、待っていた車に向かって、丁寧にお辞儀をして行った。

おそらくこれは、学校や大人が、そうしなさいと教えたのではないだろう。渡り方は教えても、待っている車にまで挨拶しろと教えたら、かえって、肝心なことがおろそかになる。

お辞儀をした子は、先輩がそうしていたのを見て、自分がリーダーになったら、そうするものだと思ってやっているのだろう。
そして、その先輩は、おそらく、大人がそうしているのを見て、憶えたに違いない。運転手に対する気配りまで、子供には出来ないからだ。

礼儀作法は、形ではなく、他人に対する気配り思いやりだから、利己的な子供には出来ない。だから、ただ挨拶をしなさい、と言うより、感謝の理由を説明してやらなければ身に付かない。

日本人は「わけもなく」アリガトウ、スミマセンと言う、と思われているが、確かに、子供の頃から、「ありがとうは?」「ごめんなさいは?」と、訳もなく形を強制される。

しかし、だまって大人に見習う子供は、進んでそうしたいと思うし、また、「何でそうするんだろう」と考えるから、少なからず、その意味を理解していく。
だから、子供に礼儀作法を躾けたいなら、大人自ら、それを実践していれば、いつの間にか見習っている。もちろん、悪習もだが。