ひびレビ

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「ラヂオの時間」を見て

2016-08-29 08:01:22 | テレビ・映画・ドラマ
 1996年の映画「ラヂオの時間」を見ました。だーいぶ前におススメされていたのですが、近場の店に置いていなかったので、WOWOWで放送されたこのタイミングでの視聴となりました。

 普通の主婦・鈴木みやこが書いたラジオドラマ「運命の女」が脚本コンテストで優勝し、役者たちの手によって演じられることとなった。みやこはその撮影現場を訪れ、リハーサルまでは上手くいっていたのだが、本番直前になってヒロイン役の女優・千本のっこが、ヒロインの名前「リツ子」が因縁ある相手の名前だったため、名前を変えて欲しいと言い出したのだ。しかも本人の希望は「メアリー・ジェーン」という、とても舞台が熱海とは思えない名前を提案しだしたのだ。
 その後も名前の変更に留まらず、舞台や登場人物名も、番組スタッフたちの手によって変えられていき、辻褄が合わない点が出てくるたびに設定を追加する羽目になる。果たしてこのドラマは無事に終わるのか・・・?


 といった感じの、主に収録スタジオで繰り広げられるドタバタ劇です。みやこの脚本はどんどん手が加えられて別の物語になっていきます・・・もうこれ、「夫と暮らしていた妻が、昔の恋人に出会い、忘れていた思いを再燃させる」という大筋しか原型が残っていない気がしました(汗。原作とは何だったのか・・・それでもこれを紛れもなくみやこの作品だと言ってのける牛にはどういう感情を抱いたらいいのやら・・・散々原作を改変されたうえで「これはあなたの作品です」と言われてもなぁ。

 牛島ものっこの意見に全面的に賛成というわけではないのでしょうけども、それでも責任ある立場として、何とかこの場を収めなくてはならない。だからこそみやこや工藤の意見を無視して、強引に話を終わらせようとしていたのでしょう。
 映画が公開されたのが1997年ということで、公開当時に私が見ていたとすれば、「牛島は何てひどい人間なんだ」と思ったかもしれませんが、今の私は「牛島も大変なんだなぁ」と思えました。いつか誰もが満足のいく作品を作れると信じ、今は妥協に妥協を重ねて、自分を殺して作品を作る。どんな作品でも自分の名前は外せず、責任を背負わなければならない。物語の都合上、工藤ディレクターかっけー!と思う気持ちもありますが、一方で役者への配慮など、牛島も相当な苦労があったはずです。彼は彼なりに番組をまとめあげようとしていたのでしょうね。

 また、牛島プロデューサーは「ラジオドラマにはテレビドラマにはない良さがある」「ラジオならナレーターがひと言『ここは宇宙』というだけでもう宇宙空間になっちゃうんですから」「人間に想像する力がある限り、ラジオドラマには無限の可能性がある」といいことを語ってくれました。確かに言葉と音で無限の世界を創造できるラジオドラマはいいものです。もちろん、目で楽しめたらそれはそれで嬉しいことですが、耳で聴いて、頭でその世界を創造するという楽しさはラジオドラマならではのものでしょう。挿絵のない本にも近いことが言えると思います。


 現場がドタバタする中、最初はどこか冷たい印象のあった工藤ディレクターでしたが、次第に魅力的に映っていきました。途中、これ以上ホンを変えたらみやこの作品ではなくなってしまうと感じ、自分たちのためにホンの改変を止めようとしていました。どんな作品であろうとも、作家が望むとおりに作るのが自分たちの仕事。工藤自身、みやこの本は「泣けなかった」と思っているようでしたが、それでも彼女の望むとおりに作ろうとはしていました。自分が気に入らないからといって勝手にホンを変え続けてしまっては、それはもう仕事とは呼べず、プロとも呼べないのでしょう。そうしたことが横行しないよう、工藤は牛島を止めようとしたのでしょうね。
 
 工藤以外で印象に残った登場人物としては、ナレーターの保坂アナウンサーが挙げられます。それまで用意されていた文章しか読まなかった保坂が、ラストシーン直前で台本を閉じてアドリブを入れてくる姿が大変熱かったです。全く出番の無かったマルチン神父役の役者に台詞を与えたり、突然ジョージ役で乱入したみや子の夫もキャストの1人として紹介するなど、収録前のどこか淡々とした様子からは想像もできない熱い姿をみせてくれました。

 ワガママな千本のっこ、そんな彼女に対抗するかのようにアドリブを入れてきた浜村錠。2人とも、一旦はマイクの前に立つのを嫌がった身ではありますが、互いに最後は仕事を成し遂げて帰っていきました。どんな私情があろうとも、きちんと仕事をこなして帰る。仲が悪くても恋人の掛け合いを行う。何だかんだで2人ともプロなんだなぁと感じました。


 最後には次回作をという話も持ち上がっていましたが、牛島も案外ノリノリで構想を練っていました。メアリーの別れた夫・ハインリッヒが、メアリーを取り戻しに現われるという案を思いつくものの、ハインリッヒは車で湖に飛び込んだという設定。が、「陸専用だとは言っていない」ということで、水陸両用車を提案してきたのには笑いました(笑。


 こうしたドタバタを見ていて改めて、物作りって大変なんだなぁと感じさせられました。どの現場もこうだとは思いませんが、物作りに携わっているのは多くの人間です。そこには多くの感情があって、誰とだって仲良くできるわけではないでしょう。ただ、それでも妥協して、どこかで割り切って仕事をこなさなければならない。それが仕事をするということ、物を作っていくということなのでしょう。
 関わった全ての人が満足する作品を作る。それはとても難しいことではありますが、そうした目標を見失ってしまうと、ただただ自分を殺すだけの日々になってしまいます。妥協しつつも自分を見失わないことが大切なのだと感じさせられました。

 物作りの大変さ、仕事をするということがどういうことなのかが描かれていた「ラヂオの時間」でした。
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