この前、関鉄常総線へ元キハ30を撮りに行ってきました。
無人化・ワンマン化ですっかりリフォームされてしまうJR駅より私鉄ローカル駅に昔ながらのペンキで描いた看板や行灯式のものが残っていたりします。
こちらはウチの一人娘。近所の野良娘に「アンタ、ブサイクな尻尾やなぁ」とでも言ったのでしょうか、スゴイ目で睨まれています。けんかしたら間違いなく負けますね。
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例年8月15日が近づくと書店の文庫売り場にも戦記物コーナーが設けられますが、小生は通年帰りの電車内で戦記物を読んでいます(寝てる時間の方が長いですが)
先々月に読んだ本です。日中戦争がずっと続いていて太平洋では別の戦争が始まった、小生はそんな印象を持っています。
この話には泣けました。「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」と旧日本軍は輸送・兵站を軽視したそうですが、実際に担当された方々は実に責任感が強く、結局遠く離れた机上で練られた作戦に振り回される訳です。
第一章は担当することになった馬が盲目だったと。重い荷を背負い戦場の細い仮設橋で盲目の独余は足を踏み外し川に転落しますが、彼の声を頼りに懸命に岸まで泳ぎ着く場面は感動です。
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本当におもしろかったのがこっちです。
この本は、ほとんど寝ないで毎日乗ってから降りるまでずっとこれを読んでいました。
カバー裏に書かれているように、主要な作戦とか戦闘艦・戦闘機の話ではなく地味に毎日続けられる輸送や掃海・哨戒と言った戦記が好きです。
「船団護衛から夜間雷撃へ」は当初、商船改造空母で船団護衛の対潜哨戒を九七艦攻でやっていた九三一空が末期の沖縄戦に天山で雷撃部隊(特攻ではない)として参加する話です。この話は最新刊「空の少年兵」最後の雷撃隊、にも出ています。改造空母を旧海軍は開戦当初は航空機輸送艦として、半ば以降米潜による輸送船の被害が激増すると旧式機を載せて対潜哨戒に使用しますがほとんど効果なく逆に空母が米潜の攻撃目標になってしまいました。今まで改造空母での戦記はほとんど目にしたことが無く、海鷹飛行甲板での対潜用一式25番二号爆弾一型を付けた九七艦攻の写真共々貴重です。H6型電探を装備した九七艦攻は垂直尾翼に斜め赤帯が付く、というのも初めて知りました。こういうのを知るとプラモ作りたくなるんですが、買ってから数年手つかずのS2FやJu88、それにNもさっぱりだし・・・
この水爆も知名度の低い機体です。随分前に「さぁぷらす戦史図書館」というサイトに奄美大島の古仁屋を秘密中継基地として沖縄に向かう特攻機のためにレーダーピケット艦狩りを行ったという話が紹介されていましたが内容はほぼ同じです。上記サイトの「司書の戦史レポート」のページには他にも小生好みの地味な戦史が満載です。
最後は零戦です。終戦間際、五二型甲以降様々な改良・変更型が出ますが、空輸した機体のステンシルに六三型丙と書いてあったのを見たという話です。五二丙型は結構あったそうですが、六三型は「爆戦仕様で胴体下は250㎏爆弾で増槽は150㍑の統一型を両翼下に付けるはずだった」とあります。輸送された機体には対B29用である三号爆弾用射爆照準器を備え、後部風防内のジャイロにより降下角を自動算入されると取扱説明書に書かれてあった、とあります。同書では「胴体下の装備が250㎏爆弾と300㍑増槽と互換可能なタイプではないか」としています。ネットで検索しても諸説あるようですが、実際に見たという方(複数)の証言は強いです。まあ、当時は混乱の極みで「予定されていた」が実際は違っていた、なんてことも随分あったようですから真相は分かりませんね。