カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

リクエストで分かる皆の気持ち

2024-03-15 | 音楽

 ワールドロックナウが、3月いっぱいで放送終了になるという。97年から放送していたというから、27年の歴史に幕が下りるわけだ。DJの渋谷陽一が病気療養中ということであるが、何の病気でどういう状態かは不明のまま、続行が困難と判断されたのかもしれない。代わりに今は伊藤政則が留守番で番組を務めているが、渋谷さんが戻らないまま、代わりが最後までということになる。伊藤さんの番組運びは、それはそれで大変に楽しいものだけれど、どうにもわびしい気分に陥ってしまう。ワールドロックナウの終了後は「洋楽シーカーズ」という番組に鞍替えするとのことだ、大貫憲章が加わってというから、伊藤政則と掛け合いでやるものなのか。詳細は追って、ということになる。
 考えてみると僕は二十代後半の、わりに放送の始まる最初のころから聴いていたことは間違いない。実のところ前身とまでは言えないかもしれないが、同じくNHK-FM番組のサウンドストリートは、中学生から二十歳前くらいまで聴いていたのである。最初は木金の二日間渋谷さんが担当していて、洋楽も邦楽も扱っている番組だった。結局金曜一日になり、何故か終了していた。十代の終わりは忙しい時期で、金曜の夜にはもうほとんど聴けてなかったかもしれないが、ときどきはカセットテープに録音して聴いていた。僕はこれ以外のラジオ番組を聴くタイプではなかったし(好みの傾向でない音楽を聴くほど心が広くないのだった)、歌謡曲は飲み屋で聴くカラオケしか聴いたことが無い。テレビの歌番組は小学生までで、それ以後は日本の流行歌とはほとんど縁がない。もちろん、ぜんぜん知らない訳では無いが、興味が無いというか。通勤は毎日1時間はCDか、この録音した番組を聴く。そういうのを何十年と繰り返してきた訳だ。そういうものから一旦は強制終了がかかる訳で、これを何と言っていいのかよく分からない。もう僕はあとそうしないうちに、死んでしまうのではなかろうか。
 渋谷さんの紹介する音楽の傾向が、必ずしも自分とぴったり合っていたわけではない。ヒップポップなんて歌詞の分からない日本人が聴いても仕方ないし、前衛的なダンスミュージックも耳障りだった。リクエストはあったのだろうが、何十年も前から、基本的には渋谷さん自身が気に入っていたものだけを受け付けていたのではないか。以前は月に一回リクエスト特集というのがテーマを決めて行われていたので、そういう時は皆リスナーは張り切ってリクエストを書いていた。普段はそんな風に、渋谷さんならかけてくれるという曲を考えないと放送に乗らない。自分の好きな曲を選んではならないことくらいリスナーは知っていたので、リクエストで何回も聴いたことのあるラジオネームの人くらいしか、リクエストしていなかったのではないだろうか。
 それというのも、伊藤さんにDJが変わってから、実はだいぶ前からのリスナーだという人の、リクエストが増えているように思う。リクエストを出すことがリスナーとしての存在意義だとまでは言わないが、こういう場面が来ないことには、なかなかメッセージを送ろうとまでしないだろう大多数の番組ファンがいる筈で、結局僕も一度として葉書やメールをすることは無かった。一度だけ、番組へのメール受付をすべきだという意見を送ったことがあるのだが(10年くらい前だと思う。その後最近はフォーマットがやっとできた)、それは無視された。いわばそのような保守的な部分を含め、歴史のある番組だったのである。
 最後になって番組リスナーの、実に多彩で見事な選曲に唸ってしまう思いがする。みんな多かれ少なかれ同志であって、そうして渋谷さんの申し子だ。気分は沈んでしまうものがあるにせよ、切り替えて楽しまなければ、という思いのみである。どうか元気になって下さい。
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同じ一週間を皆で共有する   MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

2024-03-14 | 映画

MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない/竹林亮監督

 会社のある部署の全員が、同じ一週間を繰り返しているという設定。何故だか、一番下っ端というか、そういう人からタイムループにハマりこんでいることに気づき。なんとか一人ずつ順番に、このループにハマりこんでいることに気づいてもらう。最終的にはこのループに陥る原因である部長に気づいてもらわなければならないのだが、部長だけがループである現象に気づきにくい状況にあるのだった。さらに抜け出すためには気づくだけではダメなようで、みんなで漫画作品を完成させなければならなくなるのだった。
 元々抱えている仕事を片付ける必要があるし、主人公の女性は、その仕事をきっかけにして転職しようともくろんでもいた。皆で協力して描かないことには、とても漫画作品なんて完成しないし、そうするとタイムループから脱することもできない。最初にループに気づいた人など、すでになん十週というタイムループを経験していて、いい加減にうんざりしているのだ。
 舞台劇のようなやり取りが続くが、繰り返しの中要領は良くなっていって、予測というかすでに知っていることが起こるので、対応できるようになっていく訳だ。しかしだからと言って、その同じことを繰り返す以上の労力を皆で成し遂げなければならないところに、この物語の大きな仕掛けがある、ということである。ゆるいギャグが連続的にはめ込まれていて、これもいわゆるハマると面白くなっていくことだろう。それぞれの事情もあることだが、もう頑張るしかない状況に、職場の人間が結束していくことになる。そういう意味では、究極のお仕事映画と言えるかもしれない。うちの母は、なんだかよく分からないとつぶやいていたが、まあ、妙な設定なので、分かりにくいと言えばそうだったかもしれない。だいたい現実的な話では無い訳だし……。
 演出的には分かりにくい訳では無いが、それなりの理屈の上にこういう設定を成り立たせるものがある。タイムループ物は、基本的にSFなのだけれど、あまりに多く作られている為に、もはやそういうサイエンス的な要素は無くなりつつあるように感じる。妙な解決策であったとしても、そういうもんだと皆が思ってしまえば、それでいいのである。それにしても未来が分かる訳だから、もう少し金儲けできてもいいとも思うのだが、どうなんでしょうね。誰かいいアイディアありませんでしょうか。
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ムギはどこにいる?

2024-03-13 | なんでもランキング

 猫の名前ランキングというのがあって、

1位 ムギ
2位 レオ
3位 ルナ
4位 ソラ
5位 ベル    ……以下略

 なんだそうだ。もちろん雄雌で名前の違いはあるのだが、ムギは雄雌ともに2位で総合1位という事らしい。
 2位のレオはライオン系だとすると理解できる。3位以降は外国人主演の少女まんが系のような感じだろうか。まあ、ソラは違うが、猫だと二文字で呼びやすいというのがあるのかもしれない。もちろん以前ならトラ、タマ、ブチなんかだったろうから、それは見た目重視だったということだったのかもしれない。
 一位のムギは、なんと犬でも1位なんだという。そんな犬聞いたことないけど、多数派の人との付き合いが無いのかもしれない。
 なぜムギなのか、というのがさらに謎だが、麦という漢字も当てられるし、そのような色の関係もあるのだという。ますます訳が分からない解説である。麦色でない猫にもムギがそれなりにいそうだからである。
 やはりこれは可愛い語感、というのが正解なのだろう。抱きしめるなどするムギっという感触とともに発せられる語感なのではないか。そうすると、かなり日本的だということも言える。そんなこと言われても、外国人には分かりにくい話である。
 それにしても猫は家で飼っている人が多いだろうから(犬だってそうだけど)、名前を呼んでいる場面を見ることが稀である。猫を飼っておられる家庭の人というのは複数知っているものの、その人たちの猫の名前はほぼ知らない。ブログなんかで書いている人もいるけど、写真以外の実物を見たことは無いかもしれない。そういえばお宅にお邪魔して何かをするということも、今はほとんどない。猫の姿は見ないでは無いが、そういうのはほぼ田舎の風景で、住宅地ではかえって少なくなった。団地などの張り紙で、猫のエサやり禁止、などというのは目にするようになった。飼い猫の数は過去最高を更新しているというのは聞いたことがあるけれど、皆隠された場所で暮らしておられるのであろう。
 ということで、僕はまだムギさんに出会ったことは無いのであった。
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設定は作り物だが、現実にある恐怖   アンテベラム

2024-03-12 | 映画

アンテベラム/ジェラルド・ブッシュ、クリストファー・レンツ監督

 物語としては、おそらく米国南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷を使っての過酷な場面から始まる。許可なく話をすることすら禁じられ、脱走を試みるだけで残酷に殺される運命にある黒人たちが、その拷問状態をただただ苦しんで耐えている。主人公のエデンは、ご主人様のお慰みの後目覚めると現代社会に戻っている。これは何かの暗示的な夢だったのかと思いながら観ていると、彼女は社会学者ヴェロニカの立場で、夫や子供もいて、講演で喝采を浴びるような、一種のスターだった。そうしてそのような講演出張の後に、友人とディナーに高じ、翌日帰るためにハイヤーに乗り込むと……。
 そこで初めて二つの話が一つに重なり、その事実に観ているものは驚かされることになる。ネタバレ厳禁のスリラー映画で、考えてみると確かに伏線は引かれてあったようで、それでもこんな仕掛けだとは、なかなか気づくものでは無かろう。その後も緊張感は続いて、さて彼女はどうなってしまうのだろうか……。
 拷問場面も多く、なかなかに観るには気分の悪くなるものだが、それはそれでそれなりに意味のあることが後でわかる。おそらく黒人社会の人間がこの映画を製作し、痛烈に現代に残る差別意識を批判しているのである。それは今も黒人の中に残る痛みであるし、潜在的に感じている恐怖かもしれない。表面的には現代においては差別はかなりのところまで改善され、そうしてそれは常識としてあってはならないことである。誰もがそれをわかっていて、特に白人はそれをすることは許されることではなくなっている。しかしホテルのフロントは黒人の客の前で平気で電話を取り、待たせたり予約を受け付けなかったりするし、レストランの接客係は、必ずしもいい席に案内しようとはしない。黒人たちは抗議の意味も込めて、時にはふてぶてしく反抗する。それをまた良くは思っていないらしい人たちは、潜在的にそこらにはびこっているはずなのである。それこそが人種問題の抱えている、黒人たちを今も苦しめていることがある。そういうものが表面化するとしたら、このようなホラー映画になってしまうということなのだろう。
 黒人に生まれてきて、白人を含む、特にアメリカ社会のようなところで生きていくということは、歴史の事実を含め、このような内在的な恐怖と共にあるということも言えるのかもしれない。そういうことは、なかなか日本に住んでいてはわかり得ないことだろう。それはもしかすると在日の問題に置き換えることができるかもしれないし、男女問題であるのかもしれない。ちょっと極端かもしれないが、そのような想像力のない人には、この怖さの本質は分からないのではないだろうか。
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ノックはほどんど必要なし

2024-03-11 | つぶやき

 僕は基本的に、筆記具はボールペンである。でもそうでないときももちろんあって、それは試算というか、ちょっとした計算の必要な時に鉛筆を使う時がある。書き込む紙があって、元になっている表には印刷の文字が並んでいる。それに鉛筆であれこれ書き込んで、消しゴムでたまに消して書き直す。まあ、何を言っているかわかりにくいかもしれないが、そういう作業を月にほんの数回だが、やる場合がある。そのままその試算表を計算し直して、記録に残す。そういう作業には、やっぱり鉛筆の方が、都合がいいのかもしれない。というか、消しゴムで消して修正する必要から、そうなってしまうのだろう。
 鉛筆と書いたけど、それはそもそも鉛筆がそこにあったからで、別段シャープペンシルを使ってもいい。僕の持っているボールペンの中にも4色というか、ボールペンとシャープペンの機能のあるものがある。そういうことに備えて、シャープペンの芯の替えも買っておいている。そういう事で、数年前から専用のシャープペンも買っておいて、時折使っていた。鉛筆は時々芯を削らなければならない。ナイフやカッターナイフで削ってもいいのだが、専用の鉛筆削りの小さいヤツも買っておいたのだが、これがどこかに紛失してしまった。それで面倒になってシャープペンシルを使ったのがきっかけだったかもしれない。
 ところが僕が使っていたシャープペンシルの、芯の出が何だか悪くなったのである。仕方が無いので、芯を逆から差し込んで使ったりしていたが、今度は、目が詰まってしまった。これは買い替えだな、と思って、つれあいと買い物のときに、自分ではなんだか選びきれなくて、選んでもらった。今度は調子よく書けるのだが、これもあるときふと気づくと、注意書きがしてあって、芯を出さずに使え、とあるではないか。芯を出さずにシャープペンが書けるなんて変だけど、書かれているままに書いてみると、書けるのである。なんだか変だけれど、鉄の部分が紙にふれると、芯が少しだけ出てくるようなのだ。
 調べてみると、ぺんてるの「オレンズ」というシリーズのシャープペンシルらしい。厳密には一回だけノックすると、芯が出ないまま先のパイプ部分が伸びる。そうして書いていくと、そのパイプ部分が芯の減りと一緒に縮んでいくようだ。オレンズというのは、芯が折れずに使えるという意味なのだろう。確かにこれだと、芯の部分が外に出ていないので、そもそも折れにくいということになる。説明によると、これでさらに細い0.3㎜という芯なども折れずに使えるようになったのだそうだ。僕が買ったのは0.5㎜なので関係のない話なのだが……。
 さらにこれには利点があって、一度ノックをすると、かなりの間再度ノックする必要が無くなるのである。伸びたパイプの部分が芯と一緒に縮むので、その間は再度ノックする必要が無い。これは最初そんなことを気づかないくらい長い間、書き続けることができることを意味する。気づいたときに、やっと、そういう事だったのか、と気づいたくらいだ。
 こんなことで感動しても仕方ないのかもしれないが、実に画期的技術革新と言えるのではないか。まだほかのメーカーでこれがあるとも知らないのだが、特許かもしれないし、独走しているのかもしれない。もっともこの良さに気づくには、やっぱり一度使ってみないことには分からないことかもしれない。宣伝めいてきたが、カチカチやる神経質なシャープペンのイメージが一新すること必至である。
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悪くても生き残ってやろうじゃないか   疑惑

2024-03-10 | 映画

疑惑/野村芳太郎監督

 松本清張原作のヒット作であり、古典的な名作サスペンス。映画だけでなくなんどもドラマ化されているという。観終わってみて、なんとなく知っていると感じたのはそのせいかもしれない。しかしながら桃井かおり演じる悪女の代表格である球磨子であるとか、女弁護士を演じる岩下志麻の魅力が、まさに炸裂した作品だと言える。あまりに漫画的なのだが、これがキメられる女優は、そうそういる筈が無い。特に岩下志麻のラスト近くの演技では、僕は思わず泣いてしまった。これだけクールな悲しみを演じられるキャラクターって、やっぱりそう簡単には生まれないのではないか。演技がうまいとかどうとかいう事を、越えていると思う。
 猛スピードで埠頭から海に車が落ちる。乗っていた女はたいした傷も負わず生き残るが、男の方は死亡。亡くなった男は富山の富豪で、しかも多額の保険金が掛けられていた。生き残った球磨子は前科もあり素行も悪く、殺人が疑われ逮捕される。逮捕後も厚かましい態度は変わらず、当初の弁護士は弁護を辞退して逃げてしまう。そこに国選弁護人として殺人などはやったことが無い女弁護士の佐原が、あてがわれることになるのだったが……。
 法廷では、どう見ても悪女でどうしようもない女である球磨子に不利な証言をしようと、皆が寄ってたかってうその証言も厭わず、球磨子を窮地に陥れる。しかしながら証言は嘘なので、女弁護士が細かくそれを覆すことになる。そうして事件の真相が、最後には大どんでん返しで明かされることになるのだが……。
 しかしながらどう考えてもウブな地方の金持ちボンボン上がりの中年男を、たぶらかして金銭を巻き上げようとしている球磨子が悪いのである。そうなのだがそんな女を、ボンボン中年男は愛しているのである。これはもう抗いようが無いのである。しかしこれはお家にとっても困ったことで、家族からは総スカンを喰らい、地元は荒れに荒れて、球磨子も暴れるばかりである。そうして事件は起こってしまう。
 まあ、なんというか、凄い物語である。悪いものをちゃんと悪く描き、しかし薄っぺらい正義感は、ちゃんと退けられる。妙な展開なのだが、これはこれで人という生き方の、まっとうさもあるということなのだろうか。だから、そんなに、後味が悪くも無いのだった。悲しい、というのはあるのだが。
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9対1の不思議

2024-03-09 | Science & nature

 統計的にも実感としても、ヒトは右利きの方が多い。世界的にほぼ9対1なのだという。何故そうなのかというのは、過去にはいろいろと説があった。ひとの心臓が左側にあるので、盾などでそれを守るために左で持ち、右に武器を持つためだ、と子供のころに教えてもらったことがある。確かに道具説というのがあって、ハサミなどで考えるとわかりやすいが、利き腕で使った方が効率がいい。今は左利き用の道具というのは出回っているけれど、当然割高になるし、9対1の売り上げなら、そもそも特注以外作らないかもしれない。左利きの人は不便を感じながら、右利き用に格闘しながら使ったりしているのかもしれない。
 人間以外の動物はどうなのか。これは調べるのがそれなりにむつかしいが、一般的に両方の割合が均衡するのが普通らしい。サルでも、チンパンジーやオラウータンに多少の違いがあると言われるが、誤差の範囲なのかもしれない。少なくとも、人間のように極端に偏ってはいない。
 現在最有力な説は、右脳左脳の違いというものだ。人間の場合と他の動物を分ける極端なものとして、言語がある。そうして人間の言語をつかさどる主な部位が左脳にあたる。脳出血などの場所で言語に障害が出ることで明らかにされていて、ほとんどの場合左の出血があると言語に影響するようだ。右脳と左脳の動きは体の半分に交差して伝わる場合が多く。言語で左脳を使う事によって、交差した右手の役割が変化した可能性が強いのだ。それが利き腕としての割合を強めたのかもしれない。もっとも、だから右脳で言語を扱う人が左利きなのかというとそうではないので、左利きが存在する理由は、また別の可能性があるのだ。
 要するに、生きていくうえで、右手用の道具を使わざるを得ない不自由さがありながらなお、左手の人が生きのびていくのに、有利なものがあるという事らしい。現代社会を見ると主にスポーツが思い当たるが、顕著なのは野球で、反時計回りにグラウンドを走るので、左利きは一塁に近くなるために、圧倒的にセーフになるための有利性がある。また右利きばかりの選手が多いので、サウスポーは貴重でもあり、特に投手では有利とされてもいる。また格闘技なども左利きの選手が少ないために、試合では番狂わせも時折起こる。対戦慣れしていないために、大技を喰らったりするようである。
 しかしながらスポーツと人間の進化の歴史はそんなに長いものではなく、これが進化上の有利と判断するのは違うのかもしれない。もっと生存に有利な何かが隠されているはずだという。それもずっと9対1の割合であることの有利さ、とでもいうようなものがあるということになると、それはいったい何なのだろう。9対1の割合ぐらいで、モテ度が違う有利さというか。女性の中に9対1くらいの変人がいて、左利きの男性を選んでいる可能性が有るとか無いとか。そういう事が明確になっていくと、なにか大きな発見につながるものがあるのかもしれない。
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激しい権力闘争と社会問題化するリアル   白い巨塔

2024-03-08 | 映画

白い巨塔/山本薩夫監督

 言わずと知れた山崎豊子原作の名作映画。その後何度もドラマ化されている重厚な社会派作品であり、人間ドラマである。
 優秀な腕を持ち、誰もがその存在を認める外科医の財前だったが、浪速大学医学部教授になるべく野望をもっている。しかしながら現第一外科教授の東は、財前の独善的な性格を良しとせず、外部の大学の菊川を擁立して対立するようになる。大学医院内の激しい権力構造の中にあって、次期教授選挙をめぐって各人の思惑が交錯することになる。一方財前が執刀した患者の容体が悪く、再度精密な検査が必要だと同期の内科医里見から再三の助言を受けていたにもかかわらず、財前は自身の選挙の忙しさやプライドが邪魔をして、それらの検査を怠る。結局患者は亡くなり、これが後半の裁判の火種となるのだった。
 この小説や映画などにより、医局界の激しい権力構図が表面化し(原作の山崎は、緻密な取材をもとにフィクションを練り上げることで有名な作家で、当然これらの物語の土台になっている問題は、事実をもとにしているのである)社会問題化したともいわれている。また後半の裁判の問題においても、後のインフォームドコンセントが日本に広がる問題意識となった。今の医学界や我々の生活に、鋭くメスが入れられた作品と言っていいだろう。
 そういった社会的な影響力があったのも当然で、物語自体が非常に面白いのである。映画的にも田宮二郎演じる財前をはじめとして、それぞれのキャラクターが非常に個性的に描かれている。まるで漫画でもあるが、同時にリアルなのだ。財前自身は苦学して医者となり、資産家の開業医の婿養子として、権力闘争の後ろ盾を持つに至る。そうして自分はクラブのホステスの愛人を持ち、奔放さを発揮しながらも、大変な窮地に何度も陥るのである。
 僕の生まれたころの作品なので映画はリアルタイムに観ることは無かったのだが、その後田宮はテレビドラマでも同役を再度演じたようである。おそらくそれを子供のころに観たことがあるのだと思う。田宮は国民的に人気を博する俳優で、その姿は脂が乗りきっているという感じである。その後のスキャンダルもだから、さらに衝撃的だったわけだ。
 改めてこれを観たのは、家で洋画ばかり見ているので母がつまらなそうにするので、たまには古い日本映画なら興味を持つかもしれないと考えたからだった。しかしながらこの複雑な構図のドラマでは、難しすぎたのか母まったく食指を動かさず、結局僕だけが熱中して観てしまった。誠に申し訳ない限りであった。
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キウイはスーパーフルーツともいわれているらしい

2024-03-07 | 

 キウイは食べごろが分かりにくいのだが、基本的には頭とおしりのところの柔らかさで、食べごろを判断するものらしい。そもそもエチレンを使って熟成させる過程を踏まないことには、自然に食べごろになったりしないものだそうだ。買ってきた段階でまだまだだと思われる場合は、リンゴと一緒に袋に入れておくなどすると、リンゴは自然にエチレンを出す果物なので、追熟作用があって甘くなるようだ。
 キウイは一般的には夏の果物だと思われていることが多いが(実際年中出回っているけど、あえて旬だということで)、それは多くのキウイがニュージーランドから輸入されていた関係がある。ニュージーランドは南半球なので、日本とは季節が真逆だ。つまりニュージーランドで収穫されて日本にやってくる季節が、最初は夏だった為に夏の果物という印象がついたのだろう。
 キウイの原産国は実は中国で、元はマタタビの仲間であるシーホータオと言われるものだ。現在はニュージーランド産が世界的に有名になり、中国でもキウイの名で通じるようになった。もともと食べられていたものだが、現在は生産量も増えていて、実際にニュージ―ランドよりも生産量が多い。そもそもイザベル・フレイザーという女の先生が、このシーホータオをニュージーランドに持ち帰ったのがきっかけだったという。その後生産量が増えていき、見た目がニュージーランドの鳥であるキウイに似ていることから、あえてキウイの名で売り出すようになって普及した。品種としてはニュージーランド産のほとんどは、ヘイワードと言われるものである。このようになってからの歴史は、まだ100年にもならないものなのだという。
 日本でも60年代くらいから輸入されるようになり、その後70年代になるとミカンの価格の大暴落が起こり、代わりに温暖な地域なら育つキウイを栽培する農家が増えたという。それで日本では秋から冬にかけて収穫されることから、冬の味覚としても出回るようになった。日本で品種改良されたものも多く、大きさや甘さも様々なものがある。
 またキウイと肉とは相性が良く、食後にキウイを食べると消化を助けると言われる。肉料理にキウイを使うことで、肉自体を柔らかくし味を良くすることも知られている。まだまだ可能性を秘めた食材と言えるかもしれない。
 また、タネが多いほど旨いともいわれているので、切った断面をよく観察して食べ比べてみるといいだろう。
 肥料にアミノ酸の入っているものを用いると、味も良くなるらしい。個人で栽培する人は少ないかもしれないが、いちおうご参考までに。
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映画館が残るという事   浜の朝日の嘘つきどもと

2024-03-06 | 映画

浜の朝日の嘘つきどもと/タナダユキ監督

 福島のとあるさびれたまちの、もう閉じようとしている映画館に一人の若い女がやって来て、再建しようと奮闘する物語。女の過去には、映画をとんでもなく好きにさせた男運の悪い女教師との関係があって、女が孤独に陥った家族との闇があった。そういう彼女にとって、たとえ経営が苦しくなったとしても、一つの映画館が閉じられることは、堪えがたいことだったのだ。
 まあ、一種のファンタジーのようなものだが、映画の素晴らしさは、それを観るだけの問題ではなく、映画館というコミュニティを含めて、人が生きていくストーリーそのものにあるのだ、という思いがあるのかもしれない。
 しかしながら映画館というのは興行であり職業なので、いくら素晴らしくても、利益が続かないことにはどうにもならない。そこらあたりのジレンマがあって、彼らがやっていることは、本当に正しいのかというのさえ、ちょっとあいまいかもしれない。現実的に僕の住んでいるまちには、とっくの昔に映画館は無くなってしまった。ちょっと前の選挙では、特に若い人から、映画館を我が町に作るようにして欲しいとの、要望が寄せられている。それは少なくない声だということも知っているし、実感のある寂しさでもあるだろう。街の活気のバロメーターでもあるというか。しかしながら、そういう要望というのは、天から降って来て解決できるものではない。そういうものが欲しいと思うのなら、若い彼らが自分自身の手で映画館を作ればいいのだ。それさえやろうとしないバカ野郎ばかりいるから、このまちから映画館は無くなったのである。そうして興行的には、実際には地方のまちからも人を集めるような都市部にのみ映画館は集約され、個人の小屋は日本中から無くなってしまった、ということなのだろう。一部個性的な映画館はぼつぼつ残っているのかもしれないが、そういうものは、やはり個人の強い責任感のようなもので、守られているに過ぎないのではあるまいか。
 だいぶ脱線したが、この映画は単なるそういうノスタルジーのようなものである。しかしながら背景的には、なにか福島の復興のようなものと掛け合わせて作られているようで、そのような思いと、まちの映画館というものが、象徴的に重ねられているということなのかもしれない。多少甘さのある物語かもしれないが、その様な想い無しに、まちの映画館のようなもの、それは映画館のみの問題ではなく、そこに暮らす人々そのものの、復興のようなものは、果たせないことなのかもしれない。
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超人は助けを借りて礼を言う ラストマン  全盲の捜査官

2024-03-05 | ドラマ

ラストマン 全盲の捜査官

 アメリカのFBIから日本の警察との交流が目的で、皆実(みなみ)という盲目の男がやって来る。彼は最初は迷惑視されていたが、日本で騒がれている難事件をことごとく解決し、だんだんと認められるようになる。皆実は全盲なので、移動等手引きしてくれる人を必要とする。その役にあてがわれたのが護道心太朗という刑事で、殺人犯逮捕に異常に情熱を傾けるかたわら、過去に暗い事件の影を宿す男だった。さらに皆実も、視力を失ったきっかけは両親とも殺され家が放火されるという過去の事件があったためで、最終的には、その過去の事件の解決を求めるという大きな伏線をはらんだ連続ドラマになっている。
 基本的には漫画的かつ漫才的なコンビによる刑事ドラマなのだが、コメディとして楽しめるだけでなく、難事件の謎解きやアクションも含んだ展開を見せる。脚本はよく練られていて、実際は行き過ぎているものが無いでは無いが、それなりに破綻なく事件の辻褄は合うようにできている。伏線もふんだんに張ってあり、それらを紐解く楽しみも、回を追って展開される。心太朗を養子に受け入れている護道家は、警察官僚エリート一家で、その関係そのものも、後の展開に生きてくる仕掛けである。日米交流なのだが、どういう訳か日本人ばかりなので、おおかた日本語だけで楽しむことができる。乗っているのはアメ車でバランスをとってはいるが。
 科学捜査やIT技術も駆使して、盲目の皆実もアクションができる設定である。うまく行かないように見える時もあるが、それはそれで策を練ってある。皆実はまるで、未来の見える男のようだ。嗅覚も鋭く、味覚や記憶、聴覚も超人的だ。そうして当然頭も冴えている。人々にはお礼を言い、ある意味ではたぶらかし上手である。しかし独自の人間哲学を持っており、恋愛論には理由を必要とせず、人間関係に血縁などの運命論を否定する。そのような考えが科白の端々に観られ、現代風の啓蒙活動者のような様相を呈している。障害者が必ずしも善人でないことも言わせていて、絶妙のバランス感といったところだろうか。しかしながらこの超人には皆が期待し、そうして納得せざるを得ない。他の警察関係者においても、皆実の登場によって、ある意味で警察の捜査そのものを見直すことになったのではなかろうか。
 正直に言って観はまって、連日楽しみに家に帰ることになった。主役の二人を演じる福山雅治と大泉洋の特にファンでもないのだが、その掛け合い自体を楽しんで観たというのは大きかったかもしれない。最後は韓国ドラマのような感じも無いではなかったが、そもそも日本の昔のドラマは、そういう設定は多かった。そういう意味では子供のころに観ていたドラマの再現のような気分もあったかもしれない。出来すぎたエンタティメントかもしれないが、それこそが連続ドラマの醍醐味ともいえる。期待されるものを素直に盛り込んで、素直に料理したということなのであろう。
 実を言うと僕は、連ドラのそういうベタなところが何となく苦手になって、長らく見なくなっていたのだったが、当然面白いものをその長い間に見落としている事も事実なのであろう。人間の成長と共に、時代の流れとともに連ドラはあるはずで(映画だって小説だってそうだけれど)、そういう意味では回帰してもいい頃かもしれない。
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自分の偉大さを讃える   フェイブルマンズ

2024-03-04 | 映画

フェイブルマンズ/スティーブン・スピルバーグ監督

 監督本人の自伝的映画と言われているが、さて真偽のほどは……。たいていの作家というのは嘘つきで、映画監督もそうかもしれないので。
 幼少のころに両親に連れられて観た「史上最大のショウ」の列車の衝突場面が忘れられず、電動機関車のおもちゃを何度も衝突させて壊してしまうので(おもちゃとはいえ、おそらく高価なものだと思われる。父親は息子可愛さに奮発して買い与えているものの、すぐに壊してしまうので困っていた)、母親が8ミリのフィルムで撮れば、何度もぶつけなくても映像を見返すことができると教える。それでその映像の虜になったことで、映画監督の芽生えがあったということになる。
 少年時代はボーイスカウトに入っていたが、その仲間を使って短編映画を撮って評判を呼んでいた。撮影にあたって様々な工夫を施し、その卓越したアイディアの活かされた映像に、人々は驚愕した。父親も、そういう息子を誇らしく感じてはいたが、それはあくまで趣味であり、実益を兼ねた勉強をして、堅実な仕事に就くことを望んでいた。一方の母親はピアノを弾く芸術家肌で、息子がその好きな道をそのまま伸ばしていく方が、本人とって良い事だということをわかっていた。この両親の考え方の違いの葛藤や、自分自身の将来の不安などもあって、青年期は映像世界からあえて離れることもあるのだった。
 父親の仕事の関係で、あちこちに転居することになるのだったが、最終的に高校時代は、ユダヤ人に差別的なカルフォルニアの風土があり、激しくいじめられる。しかし自分に暴力をふるう同級生であったとしても、映像の構成上必要とあらば、主役的な演出も厭わない考えを持っているのだった。それがスピルバーグの原点でもあり、主義でもある、ということなのかもしれない。
 まさに、監督スピルバーグがいかに誕生したのかということを、自ら語っている映画なのである。両親の離婚の原因をいち早く察知し、苦悩しながらも、その家族史として、自分の中にある芸術的な心情と、ある意味仕事に対する理性的な向き合い方のルーツを解き明かしている。あんがいにおじさんの影響もあったということかもしれない。そうして、離婚の原因となった両親の友人や、自分の妹たちとの関係も見過ごせない。要するに成長とともに芸術性は養われるのであり、自分の欲するところに抗いがたい強い指向性がある。廻りはそれを、時には妨害しながらも、認めざるを得なくなるのである。それは後のスピルバーグ自身の、偉大な足跡と成功の礎であったのである。
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才能がぶつかる顛末を綴った苦悩の書   少年の名はジルベール

2024-03-03 | 読書

少年の名はジルベール/竹宮惠子著(小学館文庫)

 有名な自伝だが、どういう訳か今になって読んだ。僕は萩尾望都のおそらくファンで、だからであるからか、「大泉サロン」(女性版トキワ荘ともいわれている)の存在は知っていた。知っていたというか、だいぶ後、つまりだいぶ最近になって知ったのだったが。おそらくだが、ふつうに少女漫画を読んでいた人々は、誰でも知っていることなのだろうと思われる。そうした顛末への興味もあってだろう、この本は売れたという。そうしてこの本を解説する人々は、たくさん出てきた。要するにそういう文に触れて、僕は買ったのだと思うのである。
 著者の竹宮惠子を知らない人は少数だと思うが、日本を代表する漫画家だが、同時にいわゆる腐女子と言われる人々にとっては神的な存在であろうし、現在のボーイズラブと言われる漫画の一分野の始祖者ともいわれている人である。その彼女が、どうしてそのような漫画を描くようになったのか。実際には、大変な苦労があって、世に出てきた分野であったということが書いてある。世の中というのは一筋縄ではいかないものであって、絵の上手な人間だからと言って、たとえそれだけでは、生きてはいけないものらしいのである。
 徳島出身で、地元大学生の時には既に漫画家としてデビューしており、連載も抱えていたために〆切を守れないほどになってしまい、上京せざるを得ない状況のまま本格的に漫画家として食べていく道に入っていく。その過程において、同世代の若い作家との交流がきっかけになって、萩尾望都とその友人である増山法恵と出会い。増山宅の向かいにある二軒長屋の片方に萩尾と共同で住むことになる。ここに様々な人々が集まるようになって、いわばサロン化する中で、少女漫画の創成期に様々な試行錯誤が生まれるということになったようだ。
 自伝なので、自分のことは多少割り引くというか、謙遜もあって描かれているのだと思うが、とにかくずっと週間連載を持つ超売れっ子と言っていい立場であり、読者はもちろん、編集者も一目以上に置いている大作家であっただろうことは見て取れる。しかし時代背景もあり、編集者という会社組織の事業の方針もある。漫画を描いているのは確かに作家自身であるが、それを売る媒体の出版社との関係において、それなりの拘束や条件がある訳だ。作家として本当に自由に描きたい分野があったとしても、それを自由に受け入れるだけの器量が、会社側にもなかったし、おそらく時代の許容が分からない時期でもあったのかもしれない。少女というか、女性のあるべき立場のようなものとか、その女性自身が求めている漫画という娯楽への要望というものが、才能ある作家の考えと合致するものかどうかの見極めが、非常に難しかっただろうことが見て取れる。さらに大泉サロンで一緒に漫画を描いているもう一人の突出した才能のある、親友でありながら最大のライバルである萩尾望都の存在が、自分の中で膨らみすぎていく。そうしてそもそも若い女性でもある竹宮の精神や才能を、押しつぶしていくように感じさせられていくのである。その苦しさの心情を、ある意味で吐露したところに、この自伝の大きな流れがある。
 これを読んでさらにいくつか調べてみると、その後萩尾望都も自伝を書き、いわばこの本の返答をしているようなものである。結果的に二人は現在も和解していない様子だ。大泉サロンを解散させたのは、確かに竹宮の方だったが、しかしそのことで完全に心を閉じてしまったのは、萩尾なのかもしれない。それほど二人は、その頃の青春の影響が大きく、深い傷を負ってしまったということだろう。しかし、さまざまなタブーを打ち破って、少女漫画だけでなく、日本の社会を変えてしまうような偉大な作品を生み続けた。二人が強く共鳴していたモチーフのようなものの共有は、お互いにとって大切だからこそ、むつかしいものだったのかもしれない。人間の関係性のむつかしさを思い知るような、そんな告白の書だと言えることだろう。
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金の力に屈する人々   恋愛小説家

2024-03-02 | 映画

恋愛小説家/ジェームズ・L・ブルックス監督

 多くの女性の心をときめかせている恋愛小説家のメルビンは、実は毒舌家で友達もなく、潔癖症の変人男で、まち中の人々から嫌悪の的である。彼の安住のひと時は、頻繁に通っているレストランで、優しく接してくれるウェイトレスのキャロルといる時だった。彼は店の中でも蛮行を繰り返しているので、オーナーがいる時は食事ができない。しかし問題が起きてもキャロルなら、なんとかメルビンをあしらいながら料理を持って来るのだった。
 メルビンの隣人には同性愛の芸術家が住んでいて、さまざまな騒動を起こす。しかしそのサイモンの家に強盗が入り、彼は瀕死の重傷を負う。成り行きでサイモンの飼っている犬をメルビンが預かることになるが、実はなかなかに相性が良く、懐いてきて可愛くなる。一方ウェイトレスのキャロルには息子がいるが、保険に入っていないために十分な治療を受けることができず、仕事が休みがちになり、結果メルビンは十分な食事をとることもできなくなってしまうのだった。
 なかなかに気の利いた会話劇になっていて、普通ではこうはならない展開も相まって、都会的な恋愛劇に仕上がっている。もっとも時代背景が今とは違うので、ゲイの描かれ方もやや形骸的である。もうこんな感じの表現だと、今では難しいかもしれない。
 しかしながら僕の本心の感想を言ってしまうと、これは西洋ではよく見られるいわゆる「クリスマス・キャロル」のスクルージがモデルになっているはずである。彼らは宗教的な問題なのか、このような変人が心を開いて皆に施しをすることに、異常に感動する人種なのだ。要するに金持ちが皆に金を配るべきだという美徳があって、それを守らない人に警告を発しているのだ。誰もが皆裕福ではない。しかしながらほんの少しの慈悲があれば、それらの困りごとは簡単に解決にいたる。金持ちたるもの、たとえちょっと変人であろうとも、心を開いて本当にいい人になろうではないか。
 というような物語なのであって、これは主人公がある程度の金を持っていないことには、絶対に成り立たない。皆金に目がくらんだ人々に過ぎないのである。はい、解説おしまい。
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差別的な国日本を変えよう   ジェンダー格差

2024-03-01 | 読書

ジェンダー格差/牧野百恵著(中公新書)

 副題「実証経済学は何を語るか」。男女による能力の差というものは何だろうか。役割としてふさわしいことはあるのか。向き不向きについて性別で判断できるのか。結果的に生じている賃金の格差など、差別的なのではないか。政治家など、極端に男女の比率が偏っている仕事に問題は無いのか。そのような疑問に、統計的な根拠をもって答えることは可能なのだろうか。本書では、実際にそのような男女差のある例を、統計学の手法を使って解き明かす方法で論じている。要するに何を言いたいかというと、ちゃんとした統計の方法で男女の格差に関する根拠をもって政策を講じることで、格差解消は可能であるということなのである。もっとも男女格差をなくすためにとられている政策であっても、うまくそれが機能しない日本のような国もあって、それはおそらく日本の文化的な土壌にあって、いまだに思い込みに捉われている男女がたくさんいることによって、有効な政策を使う以前の偏見にあふれていることも、示唆されている。統計を取るまでもなく男女間の能力の格差というのは、男女の違いをもってあるのではなく、男女関係なく個人差にある、ということかもしれない。
 しかしながらそのような偏見は、実は実感をもって個人が持っているものでもある。自分は女性だから数学が苦手だ、と思っている人はあんがい多いのではないか。そのような偏見を持った大人(特に教師)から教育を受けなければ、男女で数学の成績に、そもそも大した差は出ない。女子高などでは比較する男子がいないので、ふつうに数学な得意な女子は存在し、その子はその成績も伸びる。そもそも数学が得意すぎるのがたまたま男子だったりすると、そのような傾向に引っ張られて、男子全体が数学が得意なような気がしてしまうだけのことなのかもしれない。結果的に理系の学問を収める男性が増え、その後就職先として比較的収入の多い仕事に就ける可能性も上がる。そういったことも男女間の賃金格差にはあるようで、更に途中で出産などでキャリアが中断し、パートの仕事につかざるを得ない優秀な人材を活かせず、そのまま男女間の賃金格差が広がっていく。それはある意味でその国の経済成長を止めている原因にもなっていて、ジェンダー格差のある国だからこそ、将来の成長が望めなくなっている日本の姿、というものも見えてくるのである。女性を正当に認めることのできない国が少なからずあり、それはさらに国の格差として、人の生き方としても、停滞させる要因になっていくのかもしれない。
 ジェンダー格差(ギャップ)という言葉そのものから、なんだかめんどくさいフェミニストの説教だと勘違いする人がいるとすると、たいへんに残念なことになるかもしれない。当たり前のことは、当たり前の根拠をもって論じられるべきで、そのことによって、偏見のない正直な政策提言がなされるべきなのである。学歴の高く能力の高い女性で、しっかりしたキャリアを積める環境にいる人ほど、実は出産に対しても前向きであることも明らかにされている。男女間の格差を解消する手立てを打てることで、長年苦しんできた日本の出生率の低下に、何らかの歯止めをかけることも可能なのである。まずはやはり政治家には女性を無理にでも増やして、全体的な生産性や能力を上げる必要があるのだろう。

※追伸: 韓国の著しい出生率の低下がニュースになっている。日本も非常に低いが、韓国のそれはさらに深刻だ。日本と韓国は親戚と言っていいほど、似通った社会や風俗・考え方を持っている。まさにひとごとではないのである。そうしてそれは、ジェンダー格差に見られる現実の姿だと言わざるを得ない。お互いに国家が消滅の危機に陥っている状態で、変えるのは自らでなければならないはずだ。まさに今、これらの本は読まれるべき状況なのではなかろうか。
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