当事者は嘘をつく/小松原織香著(筑摩書房)
副題なのか「私の話を信じてほしい」とも帯に書いてある。修復的司法の研究をしている著者が、自らの経験を交えて、その研究に至る経緯を、いわゆる自分語りをしながら明らかにしていく。読んでいて正直に感じていたことは、性被害者が抱える感情の、複雑さと凄まじさと悲しさと、そして驚きであったかもしれない。「あなたには理解できない」という当事者からの言葉は、後に書かれているように、実際にはあなたにもわかって欲しい、ということかもしれず、ただ遮らず話を聞いて欲しいということなのかもしれない。廻りにいる支援者はしかし、そのことになかなかに気づけないもののようだ。理解したいがために、当事者を見せものにして、自分の立場から彼らを解説する。どう接していいかわからずに、その恐れもあっての事か、自分たちの視点で被害者を理解しようとする。そうして被害者の生の声を遮断してしまうのかもしれない。だからこそ、著者は加害者以上に、むしろそうした自分たちの側に立とうとする支援者に、怒りや牙をむける感情を持つようになる。何も知らない、表面的で誤解しているかもしれない人々よりもむしろ、そのような傍にいる理解者であるような二次的な加害者こそ、当事者を様々に苦しめる存在であり、おぞましくも恐ろしいものなのかもしれない。
当事者は嘘をつくかもしれないというのは、実際に嘘をついているという事実かもしれないことを、直接的に言っているわけではない。当事者しか知らない、当事者しか感じ得ない体験や言葉というものは、当事者であってしても、自信をもって本当のことであるとは、言い切れないことかもしれないことを指す。それは十分には語りつくしえない問題でもあり、そうして時を経て、粉飾されるものが含まれてしまうかもしれない。しかし語るべき時には語らなければならないものでもあり、困惑を含みながらも語られてしまうものなのかもしれない。事実を語ることは、その事実そのもののはずであるが、しかしこと性被害という出来事について当事者が語るときには、そのような体験と共に自らの感情が複雑に絡み合ってしまうのであろう。事実を語りながら、自分の事実に自信が持てなくなるのかもしれない。
時折哲学的な論考があったりはするものの、著者の体験的な成長物語というような側面もあって、後の水俣の研究に至る研究者としての当事者でない姿なども描かれていく。ケータイ小説にのめり込んで文章を磨いたりなど、ちょっと変わった試行錯誤もあったりして、なかなかに読ませる物語のようにも感じられた。
ちょっと告白すると、著者はどんな顔の人かな、とネットで検索して見たのである。そういう自分の行為を考えると、こういう本を書いて、さらに自分が被害者であることをカミングアウトしている著者の立場を、改めて考えてしまうのである。僕の行為は、ある意味で暴力に近いものがあるのは確かで、そういう事とも、被害者は戦っていかなくてはならないのだ。格闘する研究者の姿をありのままに書いた本ということで、たいへんに貴重な研究入門になるのではないだろうか。