カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

そろそろ移行時期なのは分かっているが……

2023-07-16 | 音楽

 僕はもっぱらMDに録音した音楽を車で聞いているわけだが、やはり最近のアプリには関心が向かないわけではない。パソコンではミュージシャンの曲を知りたい場合ユーチューブ検索が普通だけど、アマゾンでもその他でも、いくらでも検索方法はある。そうしてそのようにして検索していくと、やはりそれなりの未知の領域というものへの紹介のような機能があって、しかしそれなりに関連のある分野なので、面白いのである。
 しかしながら面白いからと言って、いつまでも遊んでいる場合ではない。それが苦しいところではあるのだが、さて、近年よく聞くところによると、いわゆるアプリを用いて音楽を聴くのが主流になっているらしい。僕のような聞き方は、いささか古いスタイルという事らしく、いまだにCDは購入しているし、繰り返すが、MDで曲を編集してパーケージ化している。そういうのを繰り返し気が向いたら聴いている訳だ。それでアプリで検索して聴くのもこのようにやってはいるが、これをパソコン以外でやることに移行すべきか否か、ということになる。理屈としてCDを買うよりも、そのようにアプリで聴いた方がはるかに得であるということと、いくらでも検索可能なので、自分なりの編集も簡単で、いつでも聴けるではないか、という疑問が投げかけられる立場なのである。
 そうなのかもしれないな、とは思ってはいて、僕が聴く種類のパッケージの中にも、既に現在手に入りにくい分野のもの(要するに古い)が結構あることと、そういうのは実に高価になっていたりして、いまさら買ってまで聞かない。さらにアプリで検索すると、そういうのがあんがい見つかったりすることもあったりして、それなりに驚く。一億曲あまりが検索可能だともいわれており、なるほど、売っているものより、はるかに充実した世界になりつつあるということなのだろう。
 本当はまったく面倒くさいことなのではないはずなのだが、実はそういういものに移行する気分が面倒なのである。そっちの世界が魅力的だと言われ続けていると、別段意固地になっているわけでもないのに、既におおかた間に合っているのに、わざわざ移行すべきなのか? と、疑問に思ったりするのだ。
 しかしやはり迷っている自分がいる。それというのも、車で聴くためのMDプレイヤーは既に作られていないので、中古品を買っているが、これが三代目であることと、録音を編集するミニコンポは二台持っているが(これは説明が難しいが、使い分けているのである)、そのうちの一台については、MDを取り出すエジェクトの調子悪く、数十回ボタンを押さないとMDを取り出せなくなっている。たったそれだけの修理のために電気屋に持っていくのがめんどくさいが、再度購入となると数万円は飛ぶ。そういう気分がまためんどくさい。だから取り出す時には、数分間に渡って数十回ボタンを押し続けている。正直言って、こんな生活は何とかしたいところなのだ。
 広告を気にしなければ、アプリを使って検索するのは、とりあえず今は無料である。しかしもっと充実して自由に検索出来て、曲をさらにストックさせるためには、定量料金制に移行すべきかもしれない。そうすると、もうCDを買うわずらわしさからは、解放されるのかもしれない。車では、ブルートゥースで飛ばせばいいのだろう。それは分かっているが、いまだに悩み続けているところなのである。
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今回は年を取る恐怖   オールド

2023-07-15 | 映画

オールド/M・ナイト・シャマラン監督

 南国へ家族とともにバカンスに来た人たちが、ホテルの計らいでプライベートビーチへ招待される。そこは確かに素晴らしい景観の場所だったが、切り立った断崖に囲まれた不穏なところでもあった。何かの秘密が隠されているらしいが、どういう訳か、時間の経過が著しく早く進んでいるようなのだ。そこに連れてこられた人々もそれぞれに問題を抱えており、人々は次々に非業の死を遂げていくことになるのだった。
 シャマラン監督の映画なので、妙なことになることは必然である。しかしながらいくら何でも麻酔無しで手術が行われたり、車でやって来たのに出られなかったり、どこかなんだか破綻しているような気がしないではない。まあ、付き合って観ることにはなるし、面白いような要素はふんだんにあるのだが、どこか作りものめいたチープさのようなものが、どうしても露呈してしまう。それがシャマラン監督作品の魅力であるとはいえるが、そういう変なものに付き合っている自分に目覚めてしまうと、途中で挫折してしまいかねないと思われた。結論としてはそれなりにまとまっているし、サスペンスもそれなりに楽しめるが、だからそれらは、付き合いとしてそういうものだという了解の上に成り立つものであるだろう。
 それというのも、現実にそのようなビーチが存在するのであれば、やはり使い道がありそうにも思うし、実際にもっと話題になって、これを体験するのはリスクが大きいが、興味をもって研究する人が絶えないに違いないのである。それほど大きな仕掛けと可能性があるように感じられる。だから映画として使われたのだ、という理屈は成り立つかもしれないが、事件としての取り扱いの大きさは、全世界をめぐるものになるのではないか。要するに、肝心のリアリティのようなものというのは、そういう前提があってのものではないだろうか。
 しかしながら、そのようなちょっとしたオカルトチックな題材を毎回探して来ては映像化する作家性というものについては、世界中にファンがいるだろうことからも明らかなように、シャマラン監督の宿命なのかもしれない。また怪しいものを思いついたら、資本を投じて作品化して欲しいのも事実だ。やはりそれはこれまでの作品群に優れたものがあったからで、ずばりそういう期待感だ。だから次回作もまた観てしまう。これをシャマランの呪縛と呼ぶことにしよう。
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ロシヤの動きに期待すると……

2023-07-14 | 時事

 ロシヤのプリゴジンという人の動きがよく分からないのだが、なんとなく手打ちに済んだということになっているという。それでベラルーシに行ったと言っていたが、しかしロシヤに留まっているともいう。贅沢な暮らしぶりだったという家の映像なども暴露されていて、おそらくロシヤ政府はプリゴジンの悪者としての世論操作をしているらしいともいう。それは裏返せば、それなりに国民的な人気のある人である可能性もある。そもそもプーチンとも仲が良かったから信頼もされていたフシがあって、仲間割れというか、内輪喧嘩だったのかもしれない。そういうものであったにせよ、ロシヤのプーチン体制が一枚岩ではない可能性が示唆されたわけで、これに西側が大きく反応しすぎているかもしれない可能性がある。できればロシヤが内部崩壊してくれたら助かるからである。少なくともプーチンは、かなり誤った行動を取ったということが確定したのであって、そのまま西側はプーチンと付き合い続ける道が絶たれてしまった。それはそれでいいと言えないところが地政学的な諸事情であるので、この戦争を止めることと相まって、その後の展開もある程度道筋をつけたいところである。今のところ、すべてがそれ以前の話になっており、たいへんに不安定だ。なんとか核戦争にはならないようにという制約付きでウクライナに頑張ってもらって、最終的には和平を結んで欲しい訳だが、ウクライナの国内だけでの戦闘に留めたうえで、なおかつある程度ロシヤが納得する和平案というのが本当にあるのか疑わしい。ロシヤとウクライナは、衝突する前線で均衡しながら、しかしロシヤは時々ミサイルを他のウクライナの都市部に定期的に打ち込んで不安をあおっているとしている。厭戦気分を醸成させて、政治的な転覆も図っているのである。ということは、長期化させる構えがあるということになる。なんともやりきれないが、ウクライナが勝ちすぎると核の脅威があり、西側はおびえるばかりなのかもしれない(それは我々も同じだが)。そうすると、ロシヤ内部の崩壊頼みということになって、今回のワグネルの動きに、それなりに大きな期待と可能性が無いのかを、考え出したということになる。
 さらに今回個人的に驚いたのだが、ロシヤには軍事的な民間会社がいくつもあるということだった。数十あるというし、90くらいあるともいう。少なくとも40くらいはロシヤと関係する様々な国へ派遣されてもいるし、この戦争でも駆り出されているという。プリゴジンという人は、その中でも特に大きめなワグネルだけでなく、数十社と関係があるという。プリゴジンは、ときどき刑務所に出向いてリクルートして傭兵を集めるとされているので、要するに民間の軍事会社に入ると恩赦のような制度があると考えられる。どのような刑の人が選ばれるのかはまではよく分からないが、軍人とはいえ外に出られるうえに、それなりの魅力が無ければ、要請に応じないだろう。ウクライナでは激しい拷問をしたり強姦を繰り返す兵隊が多いらしいことからも、そういう類の囚人が多いのかもしれない。まったく迷惑な話である。そうしてこういう会社には、ロシヤが雇うのでそちらからの資金頼みであることは間違いないが、さらに民間の会社、例えばガスや石油会社が資金を提供しているとされ、それは警備会社としてでなく、ということを考えると、いったいそれはどういうことなのか。もちろんそれらの会社はロシヤ政府とのつながりの中で資金を出しているということかもしれず、そうなると税金のようなものとも考えられるが、ロシヤという国の仕組みというのは、やはり日本のような国の予算の使い方とは、考えられないくらいの違いがありそうだ。いちおう選挙はやっているようだけれど、一人一票で多数決というものですら、おそらく違うのではあるまいか。
 プーチンは、我々からするとふつうに悪党だが、失脚すると、おそらく命の危険があることだろう。それはおそらく家族や仲間を含めてのことであろう。まるでヤクザの一族だが、そういう人でないと率いることができない国家が、ロシヤなのかもしれない。そうなると、次に出てくる人は、プーチンより強い人かもしれない。まったく頭の痛い事ばかりなのである。
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おぞましさを楽しむ作品   X

2023-07-13 | 映画

X/タイ・ウェスト監督

 テキサスの農場に民泊し、その場所でポルノ映画を撮影するために三組のカップル(撮影隊)がやって来る。とにかくアメリカの広大な土地にある田舎にあって、当時白人のブロンドが黒人のベトナム帰還兵とセックスしまくる映像という設定に、おそらくだが時代的にいい感じのエロがあるのかもしれない。しかしながらこの農場には不穏な空気のようなものが漂っており、池にはワニがいたりする。そうして実は農場の持ち主の老夫婦は、恐ろしい殺人鬼だったのだ。
 もっともホラー映画だと知ってて観ているので、僕の子供の時代によく撮られていたエログロ作品なのだというのは、すぐに気づかされる。そういう古い感じの設定と映像が、おそらく何かのオマージュとしてだらだらと続く。確かに直接的なセックス・シーンもあるし、裸もふんだんにあるのだが、それはその後に続くホラーへの伏線だということも分かるし、彼らが次々に犠牲になるだろうことも予見されている。もっともそれなりに意外な結末ではあるのだが……。
 前評判が非常に高い作品で、しかし実際はそんなに怖いことは無くて、変な言い方だが安心して観られるものになっている。殺され方のレパートリーだとか、セックスのおぞましさのようなものがテーマになっているようで、そこに宗教的なものが絡んで、あちらの国の人にとっては、精神的にものすごく嫌なものをみせられているのであろうことも分かる。そういう感じを笑い飛ばしているようなところがあって、そういうものが、批評家たちの自尊心をくすぐることになり、高い評価をせざるを得ない状況を作り上げているのだろう。アメリカ人というのは、なかなか厄介な人たちなのである。
 ということで、さまざまな設定は実際にはよく考えられている作品のようだが、ホラー映画としては怖いものではないというものになった。続編もあるということで(実は三部作らしい)、長く楽しめる仕掛けなのであろう。怖くない作品であるのは助かるが(怖い映画は嫌いである)、さて、どうしたものだろうか。
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やはり履歴書には写真が必要なのか

2023-07-12 | culture

 服装なんてどうだっていい問題だとは思うものの、会議だとか仮に営業などで客に会いに行くとなれば、ちゃんとスーツを着ていくことになる。自分ではどうだっていい信念だが、相手がそうではないかもしれないから、妥協策としてそうしていると漠然と思っていた。しかしながら、やはりこれはどうでもよいという信念にまで到達していない自分がいるからこそ妥協している、ということにも気づかされる。本当にどうでもいいのであれば、そんなことを気にしても仕方がない。仕事は失うかもしれないが、どうでもよいのであれば、そのために失ってもいいはずである。つまりはどうでもよいという気分は自分の中にあったとしても、実際にはどうでもよい問題でもないことも、自分は同時に知っているわけだ。
 人は見かけだけで判断されるべきではないことは、誰だって知っている常識である。見た目だけでその人がどんな人間かなんてわかり得ないのだし、それだけで判断されるというのは、偏見を助長することでもある。だから欧米では履歴書には写真が貼られることはない。見た目で判断されることを、一時的な審査になりかねない履歴書の情報として削除されているわけだ。実際にそうされることで、面接を受ける前に人種であるとか、そのような見た目の判断で除外されることを防いでいるとされる。それは面接をする側にそのような判断をしませんよ、というサインでもある。それをまた好ましいと考える人間を集めることで、その会社には最終的に得るものがあるということでもあろうし、社会規範として既にそのような考えが浸透しているのであろう。また、欧米には実際に様々な人種の人が暮らしている背景があるので、見た目を気にしている社会は、そもそもが規範として成り立たなくなっている、ということが言えるようだ。
 そうすると日本なのだが、履歴書に写真を張るのは、いまだに常識である。考えられるのは、日本人はいまだに見た目の判断を大切にしているともいえるし、あまり多様な人種を受け入れていない多様性に乏しい社会であることも関係がありそうだ。履歴書の写真を上手く撮ることで有名な写真館もあるというし、そもそも写真は加工も可能である。インスタに限らず若い人はふつうに加工しているわけで、そのような世代間において写真自体は本当にその人の見た目を担保するものでは無くなっているのではないか。それでも履歴書には旧態依然として写真を張る欄が残っていて、それに無頓着な人が、少なくとも日本の多くの会社のような社会においては、普通であるということかもしれない。文房具屋(もしくは今は100円ショップか)などには、写真欄の無い履歴書が売ってあるのだろうか。ネットでプリントも考えられるが、いくらそういうものがあったとしても、やはり履歴書を書く側として、それらは選択されないのかもしれない。
 しかしながら最終的には面接をするのだから関係ないのではないか、と思う人もいるかもしれない。もちろんそうだが、学歴も含め書類で一次審査のあるような会社ほど、書面段階での情報として、写真はある種の判断になりかねない。そういうチャンスの芽として写真の存在があるのであれば、やはりそれは見た目の判断を重視しているのである。日本人の隠れた差別意識というものが現れているのは、そのような名残をとどめていることなのかもしれないのである。
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不幸な働き方しかできていなかった日本人へ   縛られる日本人

2023-07-11 | 読書

縛られる日本人/メアリー・C・ブリントン著(中公新書)

 副題に、「人口減少をもたらす「規範」を打ち破れるか」とある。日本や韓国は、将来的には国家存続さえ危ぶまれるほどの人口減少に喘いでいる。人口減少は、ポスト工業国(いわゆる以前は先進国と言われている国々)に概ね共通する現象だが、それでも日本の人口減少は際立っているうえに、国民の幸福度や満足度も極めて低い国だということも知られている。自殺も旧共産国より高い。それは何故なのかということを、アメリカの研究者が日本の子育て世代などに直接面談を繰り返し、データ化して論じたのが本書である。
 結論からいうと、日本の働き方に問題があり、他の国と比較しても、むしろ制度的には進んでいるにもかかわらず、会社や社会規範などの圧力に屈して男性が育児休暇を事実上取れず、社畜として働かされるために単身赴任など諸外国では不可能な働き方をしているうえに、自分の仕事以外のことも圧力に耐えられずやらなければならないために、生産性が極めて低く、さらに長時間労働にさらされて疲弊し、終身雇用の呪縛によってキャリアを放棄できないために、さらに幸福さえも犠牲にしている姿を浮き彫りにしている。男女の目に見えない規範に縛られ、男性の働き方に無理がありすぎるために、同等に女性に仕事を差配することが不可能になっていて、そのことに無頓着で残酷な社会のために、改革さえままならないことが見えてくる。日本が滅びるのは、実に当たり前のことだったのである。
 さすがにここまでひどいとは思ってもみなかったが、事実を突きつけられるとぐうの音も出ない。日本人は不幸になるために働いているようなものである。言ってしまえば、馬鹿な民族なのだろう。
 しかしながらその馬鹿げた働き方を強要している社会で、これまでやって来た経緯があるので、社会規範として強力な圧力が存在し続けているのかもしれない。既にもう通用しない概念であるにもかかわらず、そのことから逃がれられない。そうなのだが、これは日本社会がそもそも特異過ぎたわけでは全然なく、実はそのような圧力は諸外国にも以前はあったことだったのだ。それが好ましいものではないと気付いたことで、政策転換して子育て政策を充実させ、又は社会規範そのものを変える努力を、他の国の政治家は向き合ってきたという歴史があるようだ。アメリカは制度としては遅れた国だが、社会規範としてのジェンダー平等の考え方は進んでいった(もちろん反対勢力も根強いのだが)。また会社の圧力があったとしても、能力の高い個人が、交渉によって自分の働き方を選択していった、という背景もあるようだ。いい意味で個人主義を主張できる土台があったし、社畜としての生き方が、個人のしあわせに直結しないということを、知っているためであるようだ。
 そのような日本を変える政策提言もちゃんとなされている。日本のジェンダー平等は、女性が男性のように働けるように後押しをするか、男性がこれまで通り働けるように、女性の働き方を限定させる制度政策であった。ジェンダー平等とは、お互いが歩み寄ることであるから、男性が女性の側に歩み寄れることの方が重要なのだ。子育てや家事は、そもそもが女性だけの仕事では無いのである。さらに具体的には、たとえ短期間でも男性の育休を義務化すべきというのも、日本においては有効だろう。
 いくつかのテーマは別に論じても面白いので、書評としてはここまでとする。外国人の提言を面白く感じない人がいることも知っている。しかしこれは、日本人の声を反映させて、日本を愛する日本に住んだことのある研究者がまとめた結論なのである。一般的な常識となり、政策提言が実行されることを切に願うものである。
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いいおじさんもいたもんだ   C’MON C’MON

2023-07-10 | 映画

C’MON C’MON/マイク・ミルズ監督

 録音ジャーナリスト(そんなような仕事みたいということで。とりあえず)の男のもとに、妹の子である9歳の甥っ子を預かることになる。好奇心旺盛ではあるが、なんとなく気難しい甥っ子と一緒になって生活する中で、段々と疑似親子というか、世代を超えた友情のようなものが芽生えていく物語。
 白黒映画で、街の情景とともに、甥っ子と男との会話が延々と続く。大人の視点しか持ち合わせていない男が、子供からの疑問などを受け止めていくうちに、段々と人間性を取り戻していくようなことになる。妹にも問題が多いようで、甥っ子の境遇は自分にかかってくる感触もある。そういう中にあって、困った状況にありながらも、甥っ子のことが自分の生活の中で、分かち難いものにだんだんと変化していくのである。
 都会人の事情もあるけれど、このような会話劇であることから、一定の相互理解のあり方の理想のようなものが描かれているのかもしれない。そもそもこのおじさんがいい人なので、なんだかよく分かりにくい子供の要求を、次々と受け入れて行けるという気もした。本来は、母親も含め、元の家族と暮らしたいだろう心情もあるはずで、だからこそ難しい面が現れていくものと推察されるのだが、おじさんは辛抱強くそこのあたりを受け入れて、自分のしあわせについても、気づかされるものがあるということになるのだろうか。
 正直に言って、僕にはあまりよく分からないところが多かった。そんなものかな、とも思うし、しかし映画的に面白い訳でもないし、そういう退屈さのある演技を眺めて、なるほどこういうのが高評価の映画なんだな、という感想くらいしか持たなかった。ちょっと気取ってるんじゃなかろうか。もっと問題が多くなる方が当たり前の世にも思うけれど、それではこういう気分のある映画にはならないということなんだろう。演技自体を楽しむということであろうけれど、そういうのは演劇を見たらいいんじゃなかろうか。しかしわざわざ映画にして、それなりの需要があるというのは、それはやはりホアキン・フェニックスの力なのである。お好きな人は、どうぞ、という雰囲気映画なのであった。
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信用できないのは、人間の方だから

2023-07-09 | 時事

 マイナンバーカードの騒動を見ていると、なんというのだろう、ほとほと疲れるというか、コロナもそうだったかもしれないけど、何か敵がみつかると一定の人というのは興奮するのが分かる。確かに問題あるよなあ、という感じなんだが、中身を見るとたいしたことは無い。ヒューマンエラーなので問題が無い、という説明の仕方に引っかかるものが無いでは無いが、確かに信用できないのは仕組みではなく人間であるらしい。ということで信用が傷ついたということは言えるにせよ、それは説明を理解できるならば、なんだそういう事か、ということに過ぎない。それくらいのエラーは当初から折り込み済みというか、起こりうることだったというのであれば、妙に絶対安全だとか言わなければよかった問題、ということなのだろうけど、そんなこと言うと最初から通らないので、結局まずい対応に追われているということなんだろう。日本は人口が多い国なので、一斉に何かやろうとすると、特に各人の同意を取ろうとすると、そもそも何もかも不可能になるというだけのことなのだろう。
 ということで、そういう経過を経ながらも、特に騒いでいる人にとっては、いったい何の意味があるのかさえ分からない。あなた個人の問題と何ら関係すらありゃしない。関心があるのなら、どうしてそういうことは気にしないのだろう。
 まあ、過去には反対した有力な政治家もいたわけで、それは脱税をしていた金丸さんのような人だったわけで、そういう人は確かに怖いよなあ、というのは分かる。そもそも(金を)持ってない人が、何を怖がる必要があるんだろうか。税金をちゃんととって公平にする基本の制度なので、準備には苦労はあろうけど、そういう悪を逃がさないためには、なんとかのりきって活かさなければならない苦難の路なのである。税の使い道には厳しくなる可能性はあるので、それを嫌うという心情というのであれば多少は分からないではない感情だが、政治家以外の人が、それも市井の人たちが、この制度を嫌う必要があるはずが無いのである。今の扇動に乗って不信感をあおられているのだというのは分かるが、それは単に自分の理解力が足りなくて、それらの悪い人たちのカモになっているに過ぎない問題だ。搾取される方が、搾取する側を援助するなんてことは、悪い冗談としか言いようがない。
 ということで、サクサク進んで次に行きましょう。
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実話でなければ……   レスキュードッグ・ルビー

2023-07-08 | 映画

レスキュードッグ・ルビー/カット・シア監督

 警察犬部隊に入りたい夢を持っている男は、なかなか良い犬に巡り合えないでいた。一方保護犬のルビーは、引き取り先が決まらず、殺処分を待つ身になっていた。なんとなく相性を感じてルビーを訓練することを思いついた男は、それからルビーの隠された才能を目の当たりにすることになる。しかしながら犬のことなので、やんちゃな面が出ると信用を失うこともある。人間の方が失望してしまい、ルビーの方も失意の為か、逃亡してしまうのだったが……。
 実話をもとに作られたという作品。飼い主の警察犬部隊の男は、文字を読むのが苦手なようで、社会生活は問題ないものの、試験のようなことが上手く行かないようだ。一方ルビーは雑種で保護犬で、好奇心は旺盛だがやんちゃな性格があり、訓練が難しい種類の犬のようだ。お互いに欠点を抱えていて、克服するのに困難性の高い立場であるという組み合わせが、努力の上にサクセスしていくという物語なのである。
 まあ、実話という背景があるからそうなのか、という物語とも言えて、人間の側が理解してやらないことには、ルビーが可哀そうだ、という場面が多かった。命もかかっていたわけだし、実際に仕事を果たしていたのに人間が勝手に理解できなかっただけ、という事件で信用を失うのである。後に汚名返上となるが、そうでなければこの話は成り立たないのである。いい話だけど、人間はもっと反省すべきなのではなかろうか。
 子供向けの映画というだけでない上出来の映画だ、という噂を聞いて観たというのがあって、そこまで言われるほどでないな、という感想を素直に持った。キャストなどを見ても、ほとんど無名の人ばかりという感じで、テレビの長時間ドラマみたいな感じだった。いい話ではあるけれど、ちょっとオーバーアクトかな、という感じ。エンディングで実際のルビーたちも出てくるので、そういうのを楽しみに観てください。
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悩む主人公に共感できない

2023-07-07 | culture

 漫画は嫌いではないし、アニメにも偏見はない。しかし、僕らの時代にはふつうに或るサブカルといわれる文化に対しては、ちょっとした距離感もある。その代表的なアニメ作品というのには、たぶんエヴァンゲリオンがあると思う。僕の青春時代のど真ん中にありながら、それも僕はサブカルとかなり近い人間、親和性のある人間、でありながら、しかし、エヴァとは相性が悪いのである。何故なのかは考えたこともない。
 僕より先輩たちのアニメで,そう興味が無かったものにガンダムがある。僕は永井豪も嫌いではないし、マジンガーZなんてものには、ふつうの面白さを感じていたはずなのだが、しかし、ガンダムには退屈さがどうしてもあって、挫折した。僕が言っていることに共感なんてないのは分かっているが、それでもその後の出てきたエヴァには、観ていて退屈すぎて、どうしても途中で寝てしまうという事がつづいてしまい、結局のところまともにさえ見られないのであった。
 僕は石ノ森章太郎の漫画も好きで、子供のころによく読んでいた。しかしながらそれらの漫画の主人公の悩みについては、今一つピンとこないものが多かった。それというのも、石ノ森の描く主人公たちは、自分の持つ特殊能力について、時折ひどく悩むのだった。超能力者であっても悩むし、サイボーグであっても悩む。アンドロイドであっても悩む。いわゆるマイノリティとして、普通でない自分をなかなかに認められないのである。しかしながら漫画を読んでいる多くの少年たちは(僕の想像に過ぎないが)、彼らの持っている特殊能力こそ魅力的であり、叶うものならば、自分も獲得したい能力なのだった。だから彼らのような悩みというものは、基本的に贅沢なものなのであり、ちっとも共感できるものではなかった。
 そうしてそういうものの基本を踏まえて最新映像でかっこいい戦いに臨んでいるエヴァの内容においても、なんだかグジグジしている主人公にあきれてしまうのだ。そういう葛藤というのは何かの比喩なのかもしれないが、そういうことを打開したいという男の子の欲求こそ、暴力なのでは無かったのか。
 よく分からんが、そういうことを分からないままにアニメは卒業してしまって、共感を知らないままに育ってしまったのかもしれない。それは、もしかすると、残念なことだったのだろうか……。
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貞子の生まれたわけがある?

2023-07-06 | ドキュメンタリ

 サブカルの90年代のことが語られる番組を見たメモ。
 この時代の印象的な映画として「リング」が取り上げられていた。これは世界的にも日本的なホラーとして著名で、印象深い作品だったということである。もちろん僕らにとってもそれは同じはずだ。熱狂とまで言わないが、なんだか当時も新しさのようなものは感じ取っていた。ものすごく恐ろしいが、別段血が流れるわけではない。スプラッターホラーでは無いが、貞子というアイコンは、新しいタイプの恐怖の象徴となった。
 どうしてこのような映画が90年代にできたかというと、80年代に起きた宮崎勤による連続幼女殺人事件が契機となって、日本では視覚的に残酷なホラーが自粛して作られなくなったからなのだという。
 確かに日本のそれまでの映画は、切った張ったのスプラッターものがものすごく多かった。タランティーノが「キルビル」を撮ったのも、日本映画へのオマージュだとされている。ところが宮崎勤の部屋には、幼女ものを含め、オタク的に趣味で、そのような映画や雑誌が大量に備えられていた。当時は今と違って「オタク」は、恐怖の対象となってしまったのだ。たとえそれが誤解だったとしても、人々はそのような描写の映画から影響を受けて、ひとは幼女誘拐や殺人を犯す人間を作り出したかのような錯覚を受けてしまったのだ。
 そうした影響と時を経て、ビデオテープから感染するように死の連鎖が起こるという物語が映像化された。それが90年代の象徴的な出来事として、我々の文化の足跡となったのだ。
 なるほど、と思うとともに、しかしながら、とも思う。確かに僕の少年時代というのは、えげつない描写の映画や、テレビ番組がたくさんあった。どれも胡散臭かったが、大人の匂いがしたことも確かだ。恐ろしいが、同時に憧れも抱いていたかもしれない。そういうものが量産されて、害悪が叫ばれていたこともあった。子供には有害なものだということだろう。ところが僕らは隠れてでも興味があれば見ることになる。そうやって消費する中で、段々と離れていった経緯もあったのではなかったか。要するに食傷気味になるような。作る側にもそういうのはあって、宮崎勤は契機にはなったかもしれないが、もうそろそろいいだろう、という頃合いと重なっていた可能性もなるのではないか。そんな風にも思うのである。
 貞子が生まれる背景としては、そのような連続性と解説がある方がもっともらしい。僕は知らなかったが、宮崎勤が実際の文化と何にも関係ないことくらいは分かっている。彼はそのようなオタク文化が生み出した怪物ではなく、そのようなものを欲した個人的な怪物なのである。
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さかなクンとして生きていく   さかなのこ

2023-07-05 | 映画

さかなのこ/沖田修一監督

 さかなクンの自伝的な映画。主演は「のん」で、いちおう男役のようである。しかし子供のころの描写は女の子で、そういうあたりは適当なのかもしれない。
 子供のころからずっと魚に興味があって、不良の友達と絡みながらも、不思議といじめられず、魚に関するエピソードが延々と続く。さかなクン本人も出演しており、ドッペルゲンガーのようである。そういうコメディ映画のはずなのだが、不思議とまじめ感も漂っており、子供のころから大人の時代というのは、あんがい地続きであるという物語なのかもしれない。天然の人間性は、周りがそれを認めて育てていたという環境あってのものだったかもしれず、そういうものがもっと日本にあれば、さかなクンとは違ったさかなクンが生まれるのではないか、ということなのかもしれない。
 魚が好きすぎるのはよく分かるが、普通ならこれくらい異常だと、ちょっと周りから浮いてしまうことになる。そうなっているはずでありながら、絶妙なバランス感覚もあるようで、ちゃんと人間関係を保ちながら暮らしている。しかしそれは、やはり魚中心もあるわけだ。さかなクンのことは、テレビでもおなじみなので皆が知っていることであろうが、しかしながらあれは絶対に演技であり地ではなかろうと思われる。そうであるはずなのだが、この半自伝的な映画を観る限り、それは必ずしも間違いでは無いのかもしれないと思わせられる。何しろそのままのテンションでもって、ずっと魚とかかわっている様子が分かるからである。フグを水槽で飼い歯磨きをさせたり、カブトガニを飼ったりする。大きなタコと戯れ、新鮮なアジを〆てさばく。そうして周りの人間にも影響を及ぼし、魚を通じて仕事までこなすようになっていく。そのまんま人生が、漫画的だったのである。
 映画は独立したものだが、しかしそのようにして、現実のこととも混ざっているような作品である。おそらくフィクションも混ざっているはずだが、千葉の田舎の情景も交えながら、一つの青春のありようを描いている。これからもずっと続いて欲しい魚ライフなのである。
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皆がフランスに驚いた時代   ラ・ブーム

2023-07-04 | 映画

ラ・ブーム/クロード・ピノトー監督

 13歳のヴィッグは、週末に友人宅で開かれるパーティに出かけて、そこにいたマチューと恋に落ちる。多感な時期のティーンエイジャーの私生活と、両親の浮気問題などを描いた青春映画。
 1980年代の当時、僕も中学生でこの映画の社会現象と化した大ヒットを目の当たりにしていた。とにかく大変な騒ぎになって、何でもかんでもソフィー・マルソーって感じになっていた。それは「セーラー服と機関銃」が始まるまでずっと続いていたのではなかったか。
 時を経て改めて見直してみると、あんがい地味なつくりの映画という感じで、かえって驚いてしまった。当時は中学生なのにバイクに乗っていたり、他人の家で夜遅くまで騒いでいたり、いくらフランスだとはいえ、性的に成熟しすぎであるような印象を受けたものだが、今の日本とだと、これくらいではたいして驚かないことばかりである。本当に時代の方が変わってしまったというべきか。
 好きになった男の子の気を惹きたい気持ちが強いが、目の前にすると何もできない。しかし恋の駆け引きはいろいろと考える毎日で、お互い勝手に嫉妬して騒動が起こったりする。親たちの浮気騒ぎもあるが、どちらかというと母親の方が奔放という気もする。そもそもフランスでは、女性上位の考え方があるのかもしれない。そういうのはかえって上っ面という気がするのは、やはり時代かもしれない。
 学生生活のエピソードはそれなりにつづられていて、そういうもののギャグの連鎖で、いわば小話の継ぎ合わせのような映画だったのだと気付かされた。当時はあんまりそんな風に感じていなかったが、こういうギャグは、あんがいドリフのコントなんかでも見たような気もする。そういう分野でも影響があったのかもしれない。
 フランス人だけど、どこかアジア的な可愛らしさにあふれるソフィーのための映画であることは確かで、ここまで社会現象化するとまでは予想できなかったかもしれないが、今でもこういう子が出てくると、それなりに話題になるのではあるまいか。歌も大ヒットして、しばらくはあちこちで聞かれて、いささか食傷気味になったことも思い出した。そういう意味では、ものすごい影響力のある作品なのだった。
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僕はお出かけにならない

2023-07-03 | 母と暮らせば

 僕が出勤する前に母が起きていることは稀なことで、さらに夜にも会合が続いたりすると、本当にほとんど顔を合わせる機会が無くなってしまう。もともと母は、僕にはそんなに関心をもっていない筈で、要するに妻がいさえすれば世の中のすべてが完結する世界に住んでいる可能性強くて、それはそれでかまわないことなのである。なのであるから、僕が一緒に住んでいるらしいことは、薄々感知はしているものの、そういう生活が続いていることには、あまり気付いていないかもしれない。ただしあまりにも僕の外食が続いてしまうと、ほんとうに顔を合わせることがほとんど無いので、どうやらその時間は自由であることが満喫できて、かえって楽しんでいるかもわからない。何しろ僕と一緒であると、ときどきは僕の会話を聞かなくてはならなくなる。僕の話にはまったく関心が無いのだから、そういう時間は苦痛におもっているようなのだ。時々今日は何があったのかと僕が聞いてみるのがますます嫌で、まったく違う返答が返って来る。要するに覚えていないことは答えられないので、そういうことを聞いてくる僕のことが煩わしいのである。
 しかし、そういう妙な返答をする機会を捕まえて、自分語りのスイッチが入ったりもする。僕としてはそういうのが嫌なのだが、まあ、毎度のことなので仕方がないということは理解している。また始まったが、どのみち聞いたことのある話である。しかも最近はそれなりにごちゃ混ぜに話の内容がなっているので、時には予測不能にもなる。あれっ、これはそういう事にならないはずだけど、と思うが、違う話とつながっているので結論が違って見えるだけのことである。どうしてそういう違う話がつながっているのかはよく分からないが、自分の話だったのが妹のことだったり、どこか依然見たドラマの内容だったりするのだろう。もっとも自分なりに味付けをした作り話には違いなくて、事実では無いのである。
 しかしいっしょに食卓についていると、それだけでなんとなく不満がある場合があって、今日はどこかおかえりにならないの? と言われる。自分のうちに帰って来ているのだけど、どこかに出かけなさいという意味なのではなかろうかと思われるが、母の自由な時間を奪っているのは僕なのであって、やはり申し訳ないことなのかもしれない。しかしながら僕もあんまりおもしろくも無いので黙りこくっていると、やはり不機嫌な様子も嫌なのかもしれない。不穏な空気が漂ってしまって、今夜もまた申し訳なかった次第である。
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ゴーヤーは新しい食べ物

2023-07-02 | 

 夏になるとゴーヤーが目に付く。苦みがかえってさっぱりして、暑さにバテ気味な体に効くような感じがある。苦いままサラダに入っていてもアクセントになって食べられるし、おそらく品種があって、近年はそんなに苦くないものがあるようにも感じられる。もちろん主たる料理は、ゴーヤーチャンプルー(またはそれ風でよい)で、豆腐と卵とまぶした炒め物が最適である。シンプルだけど、食が進むのである。
 子供のころにはこれは、実はあんまり見なかった。中学生だったか高校生だったか忘れてしまったが、そのころに初めて食べて、その苦さに驚いた。母は何故このようなものを僕に食べさせるのだろう。しかしすぐに慣れて、これと御飯をかき込むとたくさん食べられることを知った。当時はチャンプルーでは無くて、味噌と豚肉をまぶした炒め物が多かったような記憶がある。みそと絡めると、その苦さが気にならなくなるのだろう。
 ゴーヤーはもちろん沖縄では古くから食べられていた食材のようだが、戦後しばらくの間は、本土には移送制限がなされていた時期があるのだという。何でもゴーヤーには、沖縄特有の害虫であるハエが寄生する場合があったらしく、農作物に深刻な被害をもたらすものだった。後に駆除する方法が見いだされ、やっと70年代に解禁に至ったのだという。それから出回るようになるまで、時間がかかったものらしい。
 なるほどそれで、本当に小さいことには食べた記憶が無かったのだろう。母が何でゴーヤーを調理するようになったのかはわかり得ないが、当時はニガウリと言っていたことは確かだ。ゴーヤーと言い出したのは、僕が大人になってからのことのようにも感じる。チャンプルーってなんだろう?って思ったことがあるが、結局はよく分からなかった。後にごちゃ混ぜって意味だよ、と教わったが、そうすると、なるほど「ちゃんぽん」って意味なんだろう。長崎人には、ちょっと違うけど親近感ある言い方かもしれない。
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